街道をゆく (11) 肥前の諸街道
読み:ひぜんのしょかいどう
ジャンル:紀行文
収録:蒙古塚・唐津/平戸/横瀬・長崎
内容
中世になると、海の時代がはじまる。……私の昔からの癖だが、地図の中で肥前の島々や浦々をたどっていると、にわかに貿易風の吹きわたるにおいを感じてしまう。さらにそれらの地図が、単なる日本地図というよりも、世界史の色彩に重ね染めされているようにも感じられるのである(本文より)
印象に残った一節
たしかに重商主義は、重農主義が培ってきた伝統的モラルをくまなく破壊する。漢民族的伝統にとっては、元という異民族に軍事的に占領されたこと以上にこの政策の被害は大きかったにちがいない。(このことは、日本史にも、通用する。室町の重商主義は鎌倉的伝統を破壊してしまったし、昭和三十年代以後の重商主義は、過去の日本の伝統的モラルを根こそぎにくつがえしてしまった)
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信長が何を考えているか、ということが、織田家の末期では、遠く野戦にいる諸将にとってなぞになってしまっていた。それ以前の織田家では、諸将が野戦から駆けもどってなまの信長自身にきけばすむことであったが、織田勢力が拡大するにつれて中軸組織が必要になり、聡明な選りぬきの少年たちがその組織を運営することになった。権力が、密室の中に入ったといっていい。諸将にとっては、少年たちに会い、信長の片言隻句を聴くことによってさまざまに想像せざるをえなくなり、結局は、噂が、少年たちのまわりで生産されることになった。諸将は、噂を信ずるしかすべがなくなった。こういう権力構造に頤使され、自分の運命までほしいままに握られている場合、光秀のような状況におかれた人間は、絶望するか、絶望的な力をふるって権力構造そのものを暴力的に破壊するか、どちらかしかなかったにちがいない。
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日本という歴史地理的環境にあっては、本来、防衛ということがわかりにくい。明治後、外国の軍隊思想による軍隊をもったために持ち方がわからなくて戦争ばかりしてきた。軍隊が防衛のためにあるというヨーロッパ風の考えはそれなりの歴史から出ているわけで、歴史的にそれがわかりにくい日本にあっては、うかつに大きな軍事力をもつと持ちあぐねて気を狂わせ、つい凶器として使ってしまうというところが、近代日本にあった。ヨーロッパ人にとってはただの防衛力にすぎないものが、日本人にとっては気狂いのもとになりかねないのである。
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江戸時代の兵学の愉快なことは、兵学自身、兵器の進歩発達をいっさい認めなかったことである。兵器および作戦思想は、ほぼ一世紀前の戦国の最盛期から大坂夏ノ陣までのそれにとどめる。この点、時代小説であった。こういう兵学を経験した民族が、日本人以外に地球の他の地域にいたろうか。決して勝たない、しかし同僚の大名には作法上の恥はかかない、しかも、社会というものに進歩はありえないし、あってはならないのだという三千万(当時の推定人口)の合意の上に、その兵学の基礎は成立している。この機微を知らなければ徳川時代もわからないし、いまの日本人も理解できない。
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戦国期の九州の大小の諸大名はつねに近隣と生存をかけた競争をしているために、近隣にまさる量の武器や火薬をほしがった。宣教師たちがそれとの交換で神の教えをひろめようとし、かつひろめたのは、あまり高尚な戦略であったとはおもえない。
つまりは、こういう戦略と戦略過剰のゆき方のゆきつくところ、大反発をまねくだけであり、いつかは切支丹に日本そのものが占領されてしまうのではないかという被害者意識を肥大させることにもなる。やがて徳川日本が鎖国をしてカトリックを追い出し、プロテスタントのオランダ人のみに制限貿易をゆるしたという結果になったのも、この時代のイエズス会のやりすぎに半ばの責任があるといっていい。
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日本人の好奇心のつよさをあらわすもっとも象徴的な事柄は、はるかな後代、嘉永六年(一八五三)、江戸湾にやってきたペリーの蒸気軍艦の艦隊を見て、三つの藩が三年後にそれぞれそれを造ってしまったということだと私は思っている。それも外国の専門家の指導によるものではなく、三藩とも蘭書のみを頼って、蒸気機関と船体をつくった。
















