韃靼疾風録





読み:だったんしっぷうろく
ジャンル:歴史小説
時代:江戸時代
巻数:上、下

世界史を切り開く動乱に翻弄される韃靼公主アビアと平戸武士桂庄助を中心として様々な人間が織りなす壮大な歴史ロマン。

内容
(上)なぜか九州平戸島に漂着した韃靼公主を送って、謎多いその故国に赴く平戸武士桂庄助の前途になにが待ちかまえていたか。「17世紀の歴史が裂けてゆく時期」に出会った2人の愛の行方を軸に、東アジアの海陸に展開される雄大なロマン。
(下)「野蛮の勃興こそ歴史の跳躍台である」。文明が衰退した明とそれに挑戦する女真との間に激しい攻防戦が始まった。世界史を切り開く動乱に翻弄される韃靼公主アビアと平戸武士桂庄助を中心として様々な人間が織りなす壮大な歴史ロマン。

印象に残った一節
その者は、大明ト朝鮮トハ義を同ジクシ、難ヲ倶ニス、といった。同盟の間柄にありながら、朝鮮人は戦えば敵に投じ、義軍をやしなうにおいても甚だ糧を惜しむ、といって、ふと嘲笑ったような気配があった。

聖人とは礼教の理想的人格である。であればこそ、天祥はこの世でもっとも陋猥なものは野蛮人だとおもっている。アビアとおなじ床の上にいるというだけで唾を吐いたのも、そういうことだろう。もっとも唾を吐くというのは、アビアのいう日本の礼儀では不作法の極ということになっている。しかし、礼教の国にあってはそういうことは寛やかにゆるされる。

儒教は宋の朱子(1130~1200)によって精密な論理をもつようになったが、同時に歴史や物事を倫理的に見すぎ、理念の論議に終止する弊がうまれた。朝鮮国は明国以上に朱子学の国であり、自然、国や王統、あるいは血統などにおいてなにが正統であるかという詮議を執拗にすることこそ学問、教養の本義であるとするふうがうまれ、骨髄にまで滲みこんでいる漢字であった。

倭人のあいだでは、漢籍のなかに出てくる「君子」という語は、”精神のりっぱな人”というふうに理解されている。漢人のあいだの語感ではべつなものだった。官僚のことであった。あるいは士大夫、読書人ということで、労働者に対することばなのである。農民、商人、職人、あるいは労役するひとのことを小人という。倭国では”精神のつまらない人”というふうに、『論語』の語義どおりに理解している。しかし『論語』を生んだ漢人社会では単に階層をあらわすことばになっていた。

「女真人は、人の心を見ぬのか」
庄助は、からかうように反問した。
「われらは、駆ける者、戦う者たちだ」
「策もなくて?」
「策は大汗の意中にある」
「大汗のみの?」
「然り、したがって大汗のご胸中を窺うことは許されぬ」
(女真は強いはずだ)
庄助はひそかにおもった。

「わかった」
庄助は、いくぶん投げやりな気持で、かれらに従った。ただ、棍棒で後頭部をなぐられたあとのように、しばらく思考が白濁していた。かねてかれは人間はおなじだとおもいつづけてきた。しかし走獣と飛鳥のちがいほどではないにせよ、たかが軍装ひとつで、庄助とかれらの意識がこうも亀裂するものかと驚かされた。その驚きは、恐怖にちかいものだった。

日干しレンガでも、数百年、保つことができるであろう。ところが、堂々たるこの築造物が、ところどころで崩れるのは、人為によるものだった。敵である遊牧民族が崩すのではなく、付近の漢人の農民が崩すのである。日干しレンガがほしいためではなく、その間に仕込まれている楊柳やアシを得るためだった。それらを堆肥にする。
歴世、漢人においては、民族意識がつよくとも、国家意識が稀薄だったことが、この一事でもわかる。長城は、国家が農民を使役してつくられた。理由は農地の稔りを遊牧民族の略奪からふせぐというところにあった。農民と農地と収穫を守るこの壁を農民みずからが施肥のためにくずすのである。

将才のなかで、才能として分類できるものは、賭博の才しかないのではないか。あとは、性格として分類されるべきであろう。
まず、名将とは、人一倍、臆病でなければならない。臆病こそが敵を知る知恵の源泉というべきもので、相手の量と質、主将の性格、心理、あるいは常套戦法などについて執拗に収集する。ついで、自分の側の利点と欠点を考えぬくのである。袁崇煥軍の利点は頑丈な城郭にこもっていることであった。欠点は兵が弱いことである。かれは、自軍の欠点を憂えず、むしろ利点を拡大することで欠点をおさえこもうとした。利点を拡大する方法をとった。方法は、ただ一つだった。本来、防禦力があっても攻撃力にとぼしい城郭というものを一変させることであった。かれはひとすじに、火力を増強した。

人は生物として臆病にできていて、本来、勇気のある者がいるとすれば、精神のなにごとかが欠ける者といわねばならない。勇気は訓練と条件によってうまれるもので、そういうことでいえば武科の出身でもない袁崇煥はその種の訓練をうけたことがなかった。かれの勇気は、主知的にみずから作ったものであった。この点でも、かれは将としての性格をもっていたことになる。

漢人の軍制においては、上の威令はもっぱら刑罰を背景にしておこなわれた。漢人の文化においては、良キ鉄ハ釘ニナラズ、良キ人ハ兵ニナラズ、といわれているように、兵になるのは、ろくな者ではない、とされてきた。徴募された官兵でさえ、征旅すればかならず掠奪強姦をした。かれらをおどすのは刑罰しかなく、このため、上下のあいだに、ふつう睦みあいというものが見られない。
このあたりが、漢人と女真の組織とのちがいであったろう。

「どうだ」
と、袋子はいった。
「日本人よ、商いというのは孫悟空の術より幻妙なものだと思わないか」

あるとき陣中に一書生がすすみ出、岳飛に対し、「いにしえより、いまだかつて宮廷に権臣がいる場合、外にあって大将が大功をたてたことがありますか」と言って、岳飛の心を動揺させようとした。たとえ大功をたてても、宮廷によって殺されるということを暗喩したのである。功烈主をしのぐ者はしばしば殺されてきた。華(文明)というものは官僚・宦官の嫉妬の累積ではあるまいか、と庄助はおもったことがある。

かれら百官の卑怯さは百もわかっている。保身のみを考え、いざこちらが衰微すれば、平然とすてる手合であることも、睿親王は知りぬいていた。
しかし、そのことを憤るべきではない。百官の卑劣さは書生の酒の座の論議にはなっても、政治の次元ではなんの意味もなさないことも知っており、すべては清を興すという目的のために手段として用いねばならず、つまりはこの瓦礫のような連中を玉であるとして一枚のシーツに包み容れねばならなかった。

大ざっぱであればこそ、諸文化の上を越えてひろびろとゆきわたることができ、そういう普遍的な機能をもって文明というのである。それだけのもので、それ以上のものではない。
ところが、文明が爛熟すれば文明ボケして、人間が単純になってしまうらしい。文明人というのは”文明”という目の粗い物差しをいつも持っていて、他民族の文化を計ろうとする。くりかえしいうが、文化はかならず特異で他に及ぼせば不合理なものであり、普遍性はない。ないからこそ、文化なのである。それを文明の尺度で文化を計ろうとするのは、体重計で身長を計ろうとするのに似ている。

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  1. ”日々徒然” 副題:「賢明なる投資家」への長い道のり より:

    『韃靼疾風録』
    久しぶりに小説ネタです。投資本の合間を縫って読み進めていた、『韃靼疾風録』(司馬遼太郎著)を読了。(↑文庫の画像がどこにも無かったので全集の画像で代用)感想はこ……

"韃靼疾風録"のレビュー

(評価:5)
東アジアの構図
レビュアー: shiba-ryo.net
2009-03-26
舞台は17世紀の東アジア。主人公は平戸藩の下級武士、桂庄助(庄助は架空の人物)。
ひょんなことから庄助が日本を飛び出し、中国・朝鮮・満州を股にかけて活躍するという、現実離れしたというか、映画やドラマのような劇的な内容です。上巻は庄助が平戸を出て朝鮮、明を経て女真地域に到達するまで。下巻では清の勃興と明の滅亡までを描きます。

冷静に考えると無茶苦茶な話ですが、読みはじめるとそうした点も気にならなくなり、どんどん引き込まれていきます。
個人的に架空の人物を主人公にした司馬作品はあまり好きではないので特に期待せずに読み始めたのですが、いい意味でそれを裏切ってくれました。
「梟の城」や「風の武士」などは歴史の舞台から登場人物がやや浮いてしまっているような感がありましたが、この作品は東アジアという多様な文明・文化が入り交じった広域で、しかも明末の激動期が舞台になっているためか、架空の登場人物たちも作品の中にぴったりおさまっているような感じがします。庄助が実在の人物なのでは?と思えるくらいの自然さがありました。

上巻はそうした劇的なおもしろさに加え、日本・中国・朝鮮・満州の文化を深く描いており、現代まで続く東アジア諸国の関係が見えてきます。
そして下巻では、ヌルハチ・ホンタイジ・ドルゴンら清帝国の創世者たちの活躍をメインに、明の崩壊と清の勃興の過程を詳しく追っていきます。"夷"である清が"華"である明を倒す。エネルギーと躍動感に溢れた描写はまさに"疾風"です。

そしてラスト。
同ジャンルの小説で「大盗禅師」というのがあってこちらもすごく面白かったんですが、尻切れトンボな終わり方が残念だったので、この作品も最後が近づくに連れて少し不安でしたが、「韃靼疾風録」はとても"日本的"で満足のいく終わり方でした。

司馬遼太郎が書いた最後の歴史小説だけあって、完成度は非常に高いです。納得の一冊です。
(評価:5)
司馬遼太郎の異色作
レビュアー: Ito
2005-08-01
この作品、司馬遼太郎の長編の中ではかなりの異色作だと思います。

まず、物語の舞台のほとんどが中国であること(日本人がまったく登場しない『項羽と劉邦』は別として)。それに、他の司馬遼太郎の長編でよく出てくる「日本とは?日本人とは?」というテーマがあまり前面に出ていないように感じます。

この作品では明人(中国人)・女真人・朝鮮人・日本人の民族としての特徴が語られつつ、主人公の桂庄助を通してそれぞれの民族の中で際立った人物が描かれています。

例えば明人(中国人)は個人の利を優先し、朝廷に対する忠誠心はまったくないと語られつつ、滅び行く明朝のために、その死まで異民族と戦った袁崇煥や鄭成功。

野蛮だが素朴で正直な民族とされる女真人からは、権謀と術策の限りを尽くして女真人をまとめたヌルハチ。

儒教(朱子学)にもとづいた原則論のために空虚な空論を続ける朝鮮人のなかで、一人現実的な政策を選択し、女真人と結ぼうとした朝鮮王。

これらの登場人物の中で、”死を恐れない倭人”として登場する庄助は、歴史の表舞台で活躍するわけでもなく、これらの人々の間を漂い、最後には中国に渡るきっかけとなった女真人の妻とともに、亡命明人として鎖国日本へと帰り着きます。

私は一通り司馬遼太郎の長編を読んだあと、最後にこの長編を読んだのですが、どの長編とも異なる印象が残る良作でした。


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