坂の上の雲





読み:さかのうえのくも
主人公:秋山真之、秋山好古、正岡子規
ジャンル:歴史小説
時代:明治
巻数:1~8

明治日本の命運を決した日露戦争。勝利までの長い道のりを、秋山好古・真之兄弟を軸に描いた感動の長編


より大きな地図で 坂の上の雲マップ を表示

内容
(一)明治維新をとげ、近代国家の仲間入りをした日本は、息せき切って先進国に追いつこうとしていた。この時期を生きた四国松山出身の三人の男たち――日露戦争においてコサック騎兵を破った秋山好古、日本海海戦の参謀秋山真之兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、昂揚の時代・明治の群像を描く長篇小説全八冊。
(二)戦争が勃発した…。世界を吹き荒れる帝国主義の嵐は、維新からわずか二十数年の小国を根底からゆさぶり、日本は朝鮮をめぐって大国「清」と交戦状態に突入する。陸軍少佐秋山好古は騎兵を率い、海軍少尉真之も洋上に出撃した。一方正岡子規は胸を病みながらも近代短歌・俳句を確立しようと、旧弊な勢力との対決を決意する。
(三)日清戦争から十年―じりじりと南下する巨大な軍事国家ロシアの脅威に、日本は恐れおののいた。「戦争はありえない。なぜならば私が欲しないから」とロシア皇帝ニコライ二世はいった。しかし、両国の激突はもはや避けえない。病の床で数々の偉業をなしとげた正岡子規は戦争の足音を聞きつつ燃えつきるようにして、逝った。
(四)明治三十七年二月、日露は戦端を開いた。豊富な兵力を持つ大国に挑んだ、戦費もろくに調達できぬ小国…。少将秋山好古の属する第二軍は遼東半島に上陸した直後から、苦戦の連続であった。また連合艦隊の参謀・少佐真之も堅い砲台群でよろわれた旅順港に潜む敵艦隊に苦慮を重ねる。緒戦から予断を許さない状況が現出した。
(五)強靱な旅順要塞の攻撃を担当した第三軍は、鉄壁を正面から攻めておびただしい血を流しつづけた。一方、ロシアの大艦隊が、東洋に向かってヨーロッパを発航した。これが日本近海に姿を現わせば、いま旅順港深く息をひそめている敵艦隊も再び勢いをえるだろう。それはこの国の滅亡を意味する。が、要塞は依然として陥ちない。
(六)作戦の転換が効を奏して、旅順は陥落した。だが兵力の消耗は日々深刻であった。北で警鐘が鳴る。満州の野でかろうじて持ちこたえ冬ごもりしている日本軍に対し、凍てつく大地を轟かせ、ロシアの攻勢が始まった。左翼を守備する秋山好古支隊に巨大な圧力がのしかかった。やせ細った防御陣地は蹂躪され、壊滅の危機が迫った。
(七)各地の会戦できわどい勝利を得はしたものの、日本の戦闘能力は目にみえて衰えていった。補充すべき兵は底をついている。そのとぼしい兵力をかき集めて、ロシア軍が腰をすえる奉天を包囲撃滅しようと、日本軍は捨て身の大攻勢に転じた。だが、果然、逆襲されて日本軍は処々で寸断され、時には敗走するという苦況に陥った。
(八)本日天気晴朗ナレドモ浪高シ―明治三十八年五月二十七日早朝、日本海の濛気の中にロシア帝国の威信をかけたバルチック大艦隊がついにその姿を現わした。国家の命運を背負って戦艦三笠を先頭に迎撃に向かう連合艦隊。大海戦の火蓋が今切られようとしている。感動の完結篇。巻末に「あとがき集」他を収む。

印象に残った一節
(第一巻より)

明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらかしたことになるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の智恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇蹟といっていい。

七、八歳のころ、雪の朝、真之は厠にゆくのが面倒なあまり北窓をあけてそこから放尿した。
歌をつくった。

 雪の日に北の窓あけシシすれば
  あまりの寒さにちんこちぢまる

「なぜ、騎兵を選んだぞな」
と、父はたずねた。
好古の理由のひとつは、年限が三年で早く少尉になれて給料を早くとれるということだった。「人は生計の道を講ずることにまず思案すべきである。一家を養い得てはじめて一郷と国家のためにつくす」という思想は終生かわらなかった。

男にとって必要なのは、「若いころにはなにをしようかということであり、老いては何をしたかということである」というこのたったひとことだけを人生の目的としていた。

「合格する自信があるのか」
と、好古がきいた。好古の信条は、勝てる喧嘩をしろ、ということであった。とうてい勝ち目のない相手と喧嘩をするときもせめて五分のひきわけにもってゆく工夫をかさねてからはじめろというもので、
「のっけから運をたのむというのは馬鹿のすることだぞ」
ということであった。

「秋山はどうおもう」
とたれかが水をむけても、ふんと鼻を鳴らして菓子かなにかをたべている。
真之は、哲学論がにが手だった。にが手な話題にまじって恥をかくよりも、だまって菓子を食っていたほうがとくだということを知っている。

青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを智恵が支配していない。
「それが、若いことのよさだ」
と、子規は歩きながらいった。

真之にいわせると、「考え」というものは液体か気体で、要するにとりとめがない。その液体か気体に論理という強力な触媒をあたえて固体にし、しかも結晶化する力が、思想家、哲学者といわれる者の力である。その力がなければ、その方面にはすすめない。

「御一新で、おれの家はつぶれた。この御一新での被害は士族とかわらないが、しかし御一新についてはすこしも恨んでおらぬ」
という。仙波にいわせれば、平民の子でも刻苦勉励すれば立身することができる、これは御一新のおかげであり、この国をまもるためには命をすてる、といった。
立身出世主義ということが、この時代のすべての青年をうごかしている。個人の栄達が国家の利益に合致するという点でたれひとり疑わぬ時代であり、この点では、日本の歴史のなかでもめずらしい時期だったといえる。

――ドイツ騎兵の鈍重さ。
というのは、フランスだけでなくヨーロッパの馬術界の定評になっていた。あきらかにドイツ人の規律と形式を好みすぎる性癖からきた弊害だが、ドイツ人たちはこの不便さに気づきながらもなおかつこの教範を改正しようとしないのは、個人の性癖がなおしにくいのと同様、民族の性癖というものも、どうにもならぬものらしい。

(第二巻より)

国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるようにおもえる。
他の科学に、悪玉か善玉かというようなわけかたはない。たとえば水素は悪玉で酸素は善玉であるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないという場所ではじめて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉とわける地点から成立してゆくというところにある。

首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまったところに明治憲法のふしぎさがある。ちなみにこの憲法がつづいたかぎり日本はこれ以後も右のようでありつづけた。とくに昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の「統帥権」という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう。

かれは自己教育の結果、「豪傑」になったのであろう。いくさに勝つについてのあらゆる努力をおしまなかったが、しかしかれ自身の個人動作としてその右手で血刀をふるい、敵の肉を刺し、骨を断つようなことはひそかに避けようとしていたのではないか。むろんそのために竹光を腰に吊るということは、よほどの勇気が要る。勇気はあるいは固有のものではなく、かれの自己教育の所産であったようにおもわれる。

――いくさは、たれにとってもこわい。
と、好古はかつて弟の真之に語った。うまれつき勇敢な者というのは一種の変人にすぎず、その点自分は平凡な者であるからやはり戦場に立てば恐怖がおこるであろう。
「そういう自然のおびえをおさえつけて悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけであり、この義務感こそ人間が動物とはことなる高貴な点だ」
といった。

「騎兵の特質はなにか」
ということを、好古は後年、陸軍大学校で講義したとき、講義の最初にその命題をかかげ言いおわると、かたわらの窓ガラスを拳固でつきやぶった。
ガラスがみじんにくだけ、その破片が好古の手を傷つけ、血を噴きださせた。が、ヒンデンブルグの相似形といわれたその顔つきをすこしも変えず、
「これだ」
といった。

先述というものは、目的と方法をたて、実施を決心した以上、それについてためらってはならないということが古今東西のその道の鉄則のひとつであり、そのように鉄則とされていながら戦場という苛烈で複雑な状況下にあっては、容易にそのことがまもれない。真之はそれを工夫した。平素の心がけにあると思った。
「明晰な目的樹立、そしてくるいない実施方法、そこまでのことは頭脳が考える。しかしそれを水火のなかで実施するのは頭脳ではない。性格である。平素、そういう性格をつくらねばならない」
と考えていた。

「人間の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ」
と言い、それをさらに説明して、
「従って物事ができる、できぬというのは頭ではなく、性格だ」
ともいった。

小村寿太郎の政党論。
「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のためにあつまった徒党である。主義もなければ理想もない。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷想からできあがった一種のフィクション(虚構)である」

「いや、概念をじゃな。たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる。人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」

「山本権兵衛という海軍省の大番頭は、かきがらというものを知っている。日清戦争をはじめるにあたって、戊辰以来の元勲的な海軍幹部のほとんどを首切ってしまった。この大整理はかきがら落しじゃ。正規の海軍兵学校出の士官をそろえて黄海へ押し出した。おかげで日本海軍の船あしは機敏で、かきがらだらけの清国艦隊をどんどん沈めた」
「なるほど」
「かきがらは人事だけではない。あしは作戦屋で軍政には興味をもたぬけん、人事のことは言わぬ。あしの言いたいのは、作戦じゃ。作戦のもとになる海軍軍人のあたまじゃ」
「古いのか」
「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる。もう海軍とはこう、艦隊とはこう、作戦とはこう、という固定概念(かきがら)がついている。おそろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず平気で司令室や艦長室のやわらかいイスにどっかとすわりこんでいることじゃ」

「むろん、これは道義問題ではない」
ウィッテがいうまでもなく、帝国主義外交に道義などはない。必要のために道義めかしくするのが、外交の技術である。どうせ、侵略の野心はある。それを道義で擬装することこそ大切であり、いまは遼東をうばうことはロシアの本心をロシアみずからが暴露することである。

ウィッテは、日露戦争を予想した。
さらにはその敗戦も予想した、とウィッテ自身、その回顧録で語っているが、そこまでは信じることができない。過ぎたことをふりかえるとき、人間は神になりうる。こうなることを私だけは知っていたのだ、と当時の渦中の当事者がいうほど愚劣なことはない。

(第三巻より)

世界史のうえで、ときに民族というものが後世の想像を絶する奇蹟のようなものを演ずることがあるが、日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない。
日清戦争の段階での日本海軍は、海軍とは名のみの、ぼろ汽船に大砲をつんだだけといってもいいような軍艦が多く、むろん戦艦ももっていない。一等装甲巡洋艦もない。速力のはやい二等巡洋艦以下を持って艦隊と称しているだけであったが、戦後十年の日露戦争直前には巨大海軍ともいうべきものをつくりあげ、世界の五大海軍国の末端につらなるようになった。

「それは山本サン、買わねばいけません。だから、予算を流用するのです。むろん、違憲です。しかしもし議会に追求されて許してくれなんだら、ああたと私とふたり二重橋の前まで出かけて行って腹を切りましょう。二人が死んで主力艦ができればそれで結構です」
三笠は、この西郷の決断でできた。

要するに、日露戦争の原因は、満州と朝鮮である。満州をとったロシアが、やがて朝鮮をとる。
これは、きわめて明白である。日露戦争にもし日本が負けていれば、朝鮮はロシアの所有になっていたことは、うたがうべくもない。
むろん負けていれば、日本もとられていたといえるだろうか。このように過ぎてしまった時期にある種の仮定を設けてあれこれ考えるのは無意味だが、ただ海ひとつへだてているために所有まではされなかったにちがいない。そのあたりの機微はおなじ島国の英国人だけが知っていたであろう。英国の外務省は、日露戦争がおこるにあたって、日本がたとえ負けても国までとられてしまうことはないだろうとみていたふしがある。理由は島国という地理的環境による。
ただ、ばく大な償金を支払うがために、産業は昭和中期までは停頓したにちがいない。さらには、北海道一つをとられ、敦賀港と対馬一島はロシア租借地になったにちがいない。

小村は、べつに英国ずきではなく、英国外交の老獪さをかれほど知りぬいている者はないといっていいほどだったが、日露同盟案か日英同盟案かをきめるばあい、まず露英両国の信用度で判断しようとした。

かれは下僚に命じ、ロシアおよび英国がそれぞれ他国とむすんだ外交史をしらべさせたところ、おどろくことにロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、ほとんど常習であった。しかし英国には一度もそういう例がなく、つねに同盟を誠実に履行してきている。
さらに、「ロシア国家の本能は、掠奪である」
と、ヨーロッパでいわれていたように、その掠奪本能を、武力の弱い日本が、外交のテーブルの上で懇願してかれ自身の自制心によって抑制してもらうというのは、不可能であった。

ロシアにもまだ騎士道は残っていたし、好古にも武士道が残っている。日露ともに戦場での勇敢さを美とみる美的信仰をもっていたし、自分が美であるとともに、敵もまた美であってほしいと望む心を、倫理的習慣としてつねにもっている。そういう習慣の、この当時は最後の時代であった。

好古の観察には、昭和期の日本軍人が好んでいった精神力や忠誠心などといった抽象的なことはいっさい語っていない。
すべて、客観的事実をとらえ、軍隊の物理性のみを論じている。これが、好古だけでなく、明治の日本人の共通性であり、昭和期の日本軍人が、敵国と自国の軍隊の力をはかる上で、秤にもかけられぬ忠誠心や精神力を、最初から日本が絶大であるとして大きな計算要素にしたということと、まるでちがっている。

後世という、事が冷却してしまった時点でみてなお、ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした。死力をふるって猫を噛むしか手がなかったであろう。

一九四五年八月六日、広島に原爆が投下された。もし日本とおなじ条件の国がヨーロッパにあったとして、そして原爆投下がアメリカの戦略にとって必要であったとしてもなお、ヨーロッパの白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう。
国家間における人種問題的課題は、平時はさほどに露出しない。しかし戦時というぎりぎりの政治心理の場になると、アジアに対してならやってもいいのではないかという、そういう自制力がゆるむということにおいて顔を出している。
一九四五年八月八日、ソ連は日本との不可侵条約をふみにじって満州へ大軍を殺到させた。条約履行という点においてソ連はロシア的体質とでもいいたくなるほどに平然とやぶる。しかしかといってここまで容赦会釈ないやぶり方というものは、やはり相手がアジア人の国であるということにおいて倫理的良心をわずかしか感じずにすむというところがあるのではないか。
いずれにせよ、日露戦争開戦前におけるロシアの態度は外交というのはあまりにもむごすぎるものであり、これについてはロシアの蔵相ウィッテもその回想録でみとめている。

日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることにはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力ぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない。

ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた晦渋な戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しえても、それは敗北側のそれでしかない。
たとえていえば、太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりはむしろ、欠如している算術性の代用要素として哲学性を入れた。戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた。

ロシア帝国の常備兵力は、二百万である。日本帝国のそれは二十万でしかない。ロシアの歳入は二十億円であり、日本のそれはただの二億五千万円でしかない。ゆらい陸軍というのは機械力を中心とした海軍とはちがい、その国の経済力や文明度などをふくめた風土性を露骨にその体質にあらわしている。南山の戦いは貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めようとし、日本より十倍富強なロシアは、それを機械力でふせごうとした関係において展開する。

軍命令というのは、
――敵の先進部隊を撃滅せよ。
というだけでよい。「敵が暴進し、しかも後続部隊をもっていなければ、もっと兵力をふやしてこれを撃破せよ」というのは命令としていかにも弱く、軍の断乎たる決意を表現しえていない。しかもこのこまごまとした指示などは、兵団長たるシタケリベルグ中将にまかせるべきで、かえってかれを拘束することになるであろう。シタケリベルグがもし臆病な男なら、この付帯条件を言いわけにして作戦の不遂行を正当化するかもしれなかった。

そのような方針やら戦略戦術なりは、ふつう水兵に無関係なものとして知らされることがない。とくにロシア軍隊においてはそうであった。ところがマカロフの統率法は、水兵のはしばしに至るまで自分がなにをしているかを知らしめ、なにをすべきかを悟らしめ、全員に戦略目的を理解させたうえで戦意を盛りあげるというやりかたであった。十九世紀がおわったばかりのこの時代、マカロフがやったこのことはきわめて斬新であった。

(第四巻より)

砲弾については、戦争準備中、
「どれほどの砲弾の量を予定すべきか」
ということを参謀本部で考えた。もし日清戦争の十倍が必要なら、それだけの量を外国に注文したり、大阪砲兵工廠の生産設備を拡充してそれだけの用意をせねばならない。
が、日本陸軍は、
「砲一門につき五十発(一ヶ月単位)でいいだろう」
という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。
このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。

八月三日、この作戦の開始にあたって、大本営は現地軍の最高司令官である大山巌に対し、
「本戦闘をして日露戦争を勝利にみちびくよう指導すべし」
との訓電を発した。
ところが、砲弾の量がきわめて貧弱であるうえに、前線では食糧すら欠乏し、食事を半減している部隊すらあった。補給の不手際のためであった。補給という、この地味な、しかしきわめて戦略的で計画性を要する活動は、日本人の性格からみて不むきなのかもしれなかった。ただし、海軍はそれを手ぬかりなくやり、この戦争期間を通じて疎漏はなかった。陸軍における補給の疎漏さが、もし日本人の国民性の欠陥に根ざすとすれば、元来、陸軍というものはその民族の土俗性を多分に遺伝するものであるため、やむをえないことなのかもしれなかった。
――補給の欠乏は、戦闘の勇敢さをもってカバーせよ。
というのが、大本営の意志であった。いかにも日本的であり、この奇妙な性格的発送は、日本陸軍の終末まで遺伝した。

「集中の自由は、攻撃側にある」
と、軍団長シタケリベルグは、幕僚にむかい、まるで戦術講義でもするような調子でいった。かれは元来クロパトキンの防御主義には反対であった。防御するには、敵がどこから来てもいいように敵の三倍以上の兵力が要る。が、ロシア側は三倍もの兵力はもっていない。このため砲兵も各陣地ごとにまんべんなく薄く配置した。ところが攻撃側は攻撃の重点を自由にえらび、その重点へ砲を集中することができるのである。

黒木軍に強兵師団を配属させたのは、児玉源太郎の智恵であった。
一軍だけとくべつの強兵をもって組織するというのは、日本戦史では徳川家康におけるかれの中期以後の軍団がそうであった。家康は、当時日本最強といわれた武田家の瓦解後、信長のゆるしをえて一括して召しかかえ、これを井伊直政にあたえ、具足を赤のそろえにしてつねに先鋒につかった。先鋒は敵の堅陣をやぶるドリルのようなものであり、強ければつよいほどいい。

「私なら、こうはしません。全力をあげて正面の敵(ビルデルリング将軍)を押し、十分に押してこれを後退させてから、距離的に余裕ができてからさっさと退いて太子河へ出ます」
そういうと、黒木は戊辰戦争以来の歴戦の男だけに、若いホフマンのえがく構想をちょっとからかった。
「それは絵空事だよ」
黒木にいわせれば、戦争も角力もかわらない、敵を押すためにこれと四ツに組んでしまったらもう、この敵から離れてさっとうしろへ走るなどという魔法のようなことはできない、理屈はホフマンのいうとおりである。しかし実際の戦争はそうはいかんものだ、危険はたしかに大きい、が、危険ばかりを計算していては戦争はできんものだ、といった。

小銃の近距離射撃と白兵戦が、四時間という長い時間つづけられたのは、戦史上驚嘆すべきことであろう。祖国というものの存在が、その存在の善悪はべつにせよ、両軍の兵士のうえに重くのしかかっていた時代でこそありえた現象であった。両軍の兵士にとって祖国の命令は絶対であり、その存在は人間のすべてを規定し、その祖国のために死ぬ死はうたがいもなく(すくなくともこの当時の日本人にとっては)崇高であると信じられていた。でなければ成立しようのない現象であった。

有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである。

ついでながら陸軍大学校を出ているといったところでたしかに戦さがわかるものではない。将領や作戦家といった軍人は才能の世界に属しているもので、画家や彫刻家が一定の教育をほどこしたところでできあがるものではないという点でおなじであった。
ついでながら秋山真之はその戦術を独習して会得した人物で、かれは海軍大学校の教官をしはしたものの、大学校の学生であったことはなかった。源義経や豊臣秀吉、ナポレオンといった天才たちも、一定の教育をうけたわけではない。
ただここでいえることは、海軍のばあい、連合艦隊を構成する艦隊なり戦隊なりの作戦担当者は、真之が海軍大学校で指導した学生がほとんだったことである。これは作戦思想の統一と作戦意図の伝達にきわめて有利であった。

もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう。
「攻撃の主目標を、二〇三高地に限定してほしい」
という海軍の要請は、哀願といえるほどの調子にかわっている。二〇三高地さえおとせばいい、そこなら旅順港を見おろすことができるのである。大本営(陸軍部)参謀本部もこれを十分了承していた。参謀総長の山県有朋も、よくわかっていた。
ただ現地軍である乃木軍司令部だけが、
「その必要なし」
と、あくまでも兵隊を要害正面にならばせ、正面からひた押しに攻撃してゆく方法に固執し、その結果、同国民を無意味に死地へ追いやりつづけている。無能者が権力の座についていることの災害が、古来これほど大きかったことはないであろう。

老化した官僚秩序のもとでは、すべてこうであった。一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した。その陸軍部内でも、ほんの少数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常軌はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって他の者は身分上の安全を得たことにほっとするのである。

ロジェストウェンスキーは、空想小説の作者でもおよばないほどの想像力をはたらかせた。日本の水雷艇が北海あたりにいるというのも非現実的だが、たとえそうであるとしても、もっともスピードを必要とするその通報に帆船を使うはずがない。ロジェストウェンスキーの想像力は、このように多分に現実把握の基礎の上にはなかった。かれは強烈な自尊心のもちぬしであったが、度をすぎた自尊心というのは、ひょっとすると病的な恐怖心の裏返しなのかもしれない。
しかしかれが軍人であるなら、その恐怖心はかれ個人の胸の中に閉じこめておく作業をすべきであった。恐怖心のつよい性格であることは、軍人としてかならずしも不名誉なことではなく、古来名将やすぐれた作戦家といわれる人物にむしろこの性格のもちぬしが多い。人間の智恵は勇猛な性格からうまれるよりも、恐怖心のつよい性格からうまれることが多いのである。が、古今の名将といわれる人物は、それを自分の胸中に閉じこめ、身辺の配下にさえ知られぬようにした。それが統帥の秘訣であるであろう。

東郷がもっとも大きな信頼感をその手近の幕僚や司令官、艦長たちにかちえたのは、かれがこの年の五月十五日、旅順の港口外で封鎖作戦中、初瀬、八島という二大戦艦を触雷事故で一挙にうしなったときであった。連合艦隊はその決戦兵力の三三パーセントを一日でうしなったのである。艦隊の全員が、これでもう勝てなくなるとおもった。これが東郷に報告されたとき、報告者たちは号泣した。
が、東郷は顔色ひとつ変えず、うなずき、報告者たちに卓上の菓子をすすめたという。
このとき、戦艦朝日に英国海軍のペケナムという大佐が観戦武官で乗っていたが、この直後に東郷に会った。ペケナムは日本の運命を左右するようなこの大惨事につき東郷に悼みのことばをのべたところ、東郷はおだやかに微笑しながら、ありがとう、といった。ペケナムは後年、秋山真之に会ったとき、
――あのときほど人間の偉大さというものを感じたことがない。
といった。東郷はその胸中の悲嘆を押し殺すことによって、全艦隊に敗北心理がおこることからみごとに救いだしたのである。

乃木軍司令部は自由に作戦をたてればよかった。たれからも制約されないという、きわめてひろい権限をもたされている点では、統帥上これほどおもしろい軍団はなく、もしこの司令部を天才が運営すれば自由自在に腕がふるえたであろう。
が、凡庸な連中にとっては、自由裁量権というものほど心細いものはなく、
――乃木軍司令部は孤児だ。
という感じしかもてなかったであろう。乃木希典も伊地知幸介も、この意味では孤児であった。

(第五巻より)

庶民が、
「国家」
というものに惨禍したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突きささってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻想によって国民にかならずしも福祉のみを与えるものでなく、戦場での死をも強制するものであった。
これを譬えていえば、日本の戦国期の戦争といえば、足軽にいたるまで軍人は職業であった。その職業からのがれる自由ももっていたし、もっと巨大な自由は、自分たちの大将が無能である場合、その支配下からのがれる自由さえもっていた。このため戦国の無能な武将たちは、敵に負けるよりもさきに、その配下の将士たちがかれらの主人を見限って散ってしまうことによって自滅した。
ところが、明治維新によって誕生した近代国家はそうではない。憲法によって国民を兵士にし、そこからのがれる自由を認めず、戦場にあっては、いかに無能な指揮官が無謀な命令をくだそうとも、服従以外になかった。もし命令に反すれば抗命罪という死刑をふくむ陸軍刑法が用意されていた。国家というものが、庶民に対してこれほど重くのしかかった歴史は、それ以前にはない。
が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛でなく、ときにはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。二〇三高地における日本軍兵士の驚嘆すべき勇敢さの基調には、そういう歴史的精神と事情が波打っている。

信じられないほどに愚劣なことだが、本来、第一縦隊が地雷で消滅したとき、現場の司令部は第二縦隊以下をいったん退却させ、砲兵陣地に連絡して地雷のありそうな場所一帯を、方眼紙のマス目を一つ一つ塗りつぶすようにして射撃させるべきであった。そういう射撃法や技術は、すでにこの当時の日本陸軍の砲兵科は十分にもっていた。それをやらず、おなじ失敗を三度くりかえし、千人の兵(ロシア側の概算では、三、四千人)をむなしく消滅させてしまうというのはどういうことであろう。これは乃木の軍司令部や大迫の師団司令部だけの責任ではなく、日本陸軍の痼疾とでもいうべきものであった。戦略や戦術の型ができると、それをあたかも宗教者が教条をまもるように絶対の原理もしくは方法とし、反覆してすこしもふしぎとしない。この痼疾は日本陸軍の消滅までつづいたが、あるいはこれは陸軍の痼疾というものではなく、民族性のふかい場所にひそんでいる何かがそうさせるのかもしれなかった。

「田中、軍人は階級があがるほどにモウロクしてくる理由を知っているか」
田中は意外な話題に、存じません、と答えると、児玉は、マッチをすることまで部下が介添えするからよ、おれは陸軍大将になっても自分の身のまわりのことは自分でやる、といった。なるほどそういえば、児玉は日常の起居のなかで、まるで一兵卒のようにちまちまと自分のことをやっているようであった。
「そのかわり、貫禄は出来んがね」
くすっと笑った。起居動作のことを配下に介添えさせてさえいれば自然に王侯のような貫禄ができる、と児玉はいった。しかしそんな貫禄はでくのぼうの貫禄で、すくなくとも参謀には不必要だ、というのである。

ところが児玉にいわせれば、
(専門家のいうことをきいて戦術の基礎をたてれば、とんでもないことになりがちだ)
ということであった。専門家といっても、この当時の日本の専門家は、外国知識の翻訳者にすぎず、追随者のかなしさで、意外な着想を思いつくというところまで、知識と精神のゆとりをもっていない。児玉は過去に何度も経験したが、専門家にきくと、十中八九、
「それはできません」
という答えを受けた。かれらの思考範囲が、いかに狭いかを、児玉は痛感していた。児玉はかつて参謀本部で、
「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」
と、どなったことがある。専門知識というのは、ゆらい保守的なものであった。児玉は、そのことをよく知っていた。

大砲の操作法といったような技術分野には素人と玄人の問題があるにしても、軍事(ストラティジック)というものそのものには素人・玄人というものがない。このことは軍事の本質にかかわることであり、例をあげると、ここで素人・玄人のことばをことさらにつかうとして、長篠ノ役における武田軍団の諸将はことごとくその敵の織田信長よりもはるかに玄人であった。が、信長が案出した野戦における馬防陣地の構築と世界戦史上最初の一斉射撃のために壊滅してしまった。そのくせ信長や秀吉の戦法は江戸軍学にはならず、武田信玄の古風な甲州陣法が軍学になって幕末まで継承されたというところに、旅順における伊地知幸介を生むにいたるところの日本人の心的状況(メンタリティ)の一系譜があるであろう。

軍隊心理からいって、戦闘中の軍隊で部下の信望を得るという原理は、ごく単純であった。もっともよく戦う指揮官であればいいというだけである。よくとは、勇敢でしかも的確な判断力をもち、戦闘を遂行する以外に余分の感情をもたないという条件が不可欠であった。
兵士というのは、ただ命令されるだけの可憐な集団だが、受け身の立場であるだけに自分たちを死地に連れてゆく指揮者がどの程度の質のものであるかを見ぬく嗅覚は、ほとんど動物本能のようにして持っている。
しかもかれらがつねに望んでいるのは、よき戦闘者としての指揮官であった。その命令に従ってゆくだけでその前途に勝利があるという信仰をもちうる指揮官であり、そういう場合、戦闘がいかに惨烈の極所に立ちいたっても、兵士たちは十分に堪えてゆく。が、逆の場合、その指揮官がいかに兵士たちに媚を売り、おだて、たくみな演説をしようとも、かれらは決して鼓舞されることなく、その指揮官への軽蔑を深めるだけのものであった。

ステッセルがねがっている案は、
――よく戦った。
という印象を本国政府に思わせつつ、しかもやがては降伏にもちこむ。でありながら「降伏もやむなし」といううわべだけの戦闘経過をつくりあげようというものであり、レイスはステッセルのよき幕僚としてその意を迎える案を考え出していた。というような案をつくるレイスの意識はあくまでも対内的であり、目の前に日本軍はなく、ステッセルだけがあった。ステッセルもまた本国政府の方角にのみ顔をむけている。帝政末期のロシア陸軍の悪弊が、こういう場合でさえ露出していた。

(第六巻より)

二流もしくは三流の人物(皇帝)に絶対権力をもたせるのが、専制国家である。その人物が、英雄的自己肥大の妄想をもつとき、何人といえどもそれにブレーキをかけることができない。制度上の制御装置をもたないのである。
ロシア帝国は、立憲国家である日本帝国と同様、内閣はもっていた。しかし日本の内閣とはちがい、独裁皇帝の補佐機関、もしくは厳密には側近であるにすぎない。
ロシアのすべての官吏、軍人は、その背後におそるべき猛火を感じ、その火に背をあぶられている思いをもっていた。猛火とは独裁皇帝とその側近のことであり、独裁体制下の吏僚の共通の心理として、敵と戦うよりもつねに背後に気をつかい、ときにはクロパトキン大将のごとく、眼前の日本軍に利益をあたえてもなお政敵のグリッペンベルグ大将を失敗させることに努力し、その努力目的を達した。セオドア・ルーズヴェルトのいう「専制国家が勝つはずがない」という理論は、そういう戦場現象にまで適用することができる。

もともと戦争というのは、
「勝つ」
ということを目的にする以上、勝つべき態勢をととのえるのが当然のことであり、ナポレオンもつねにそれをおこない、日本の織田信長もつねにそれをおこなった。ただ敵よりも二倍以上の兵力を集中するということが英雄的事業というものの内容の九割以上を占めるものであり、それを可能にするためには外交をもって敵をだまして時間かせぎをし、あるいは第三勢力に甘い餌をあたえて同盟へひきずりこむなどの政治的苦心をしなければならない。そのあとおこなわれる戦闘というのは、単にその結果にすぎない。
こういう思想は、日本にあっては戦国期でこそ常識であったが、その後江戸期にいたって衰弱し、勝つか負けるかという冷たい計算式よりも、むしろ壮烈さのほうを愛するという不健康な思想――将帥にとって――が発展した。

江戸期という、世界にも類のない長期の平和時代は、徳川幕府独特の治安原理の上で成立している。体制原理によって、幕府は諸大名以下庶民にいたるまで競争の精神を奪った。このことが江戸期日本人全体から軍事についての感覚の鋭敏さをうしなわしめたということがいえるであろう。
その屈折した結果として、江戸期の士民を感動させた軍談は、ことごとく少人数をもって大軍をふせいだか、もしくは破ったという奇術的な名将譚であり、これによって源義経が愛され、楠木正成に対しては神秘的な畏敬をいだいた。絶望的な籠城戦をあえてやってしかも滅んだ豊臣秀頼の、大坂ノ陣は、登場人物を仮名にすることによって多くの芝居がつくられ、真田幸村や後藤又兵衛たちが国民的英雄になった。その行為の目的が勝敗にあるのではなく壮烈な美にあるために、江戸泰平の庶民の心を打ったのであろう。この精神は昭和期までつづく。

が、ロシア人の戦いの思想は、勝つ態勢にまで味方の兵力がととのわないかぎり戦うことをしない。それでもなお作戦上の至上要求として戦えと命ぜられれば、みずからを壮烈に感じて陶酔するよりも、むしろ士気が沈滞し、ときには降伏したりしてしまう。ヨーロッパ各国がたえまない戦争によってその文明をおこしてきただけに、日本の戦国期のひとびとのように戦争の本質というものを知っていたからである。

戦争というのは国家がやる血みどろの賭博であるとするなら、将軍というのはその賭博を代行する血の勝負師であらねばならない。
当然、天性、勝負運の憑いた男でなければならない。賭博の技術は参謀がやるにしても、運を貸すのは将軍でなければならない。海軍大臣の山本権兵衛は、連合艦隊司令長官をえらぶにあたって、何人かの提督のなかから、もっとも名声がなく、しかも舞鶴鎮守府司令長官という閑職にいた東郷平八郎をえらび、明治帝からその理由を下問されたとき、
「この男は、若いころから運のよかった男でございますので」
と、答えた。山本は戦争とその執行者というものがどういうものであるかを知りぬいていたようであった。
乃木はその点、あくまでも憑いていない男であった。かれにあたえられた最初の参謀長はたれもが唖然とするほどにその任にふさわしくない男であったし、つぎに総司令部がやった乃木軍司令部の大異動でやってきた小泉正保は、まだ一発の弾もうたず、敵の顔も見ず、集結地にすらついていない汽車のなかで墜落事故をおこしてしまった。

作戦目的というのは一行か二行の文章で足りるのだ。るる説明してもなおわからないような作戦目的というのは、もうそれだけでろくなものではない

(第七巻より)

しかし、
「作戦中止」
とまでは、クロパトキンは言いきれない。多少の尾ヒレをつけておく必要があった。それはロシア帝国のためではなく、かれ自身の官僚的立場をまもるためであり、もし後日、ロシアの宮廷からかれの弱腰を衝かれた場合、それを言いのがれるための配慮だけはしておかねばならなかった。
要するに、かれはその配慮による作戦だけを用意する。それによって兵を死なしめるのだが、専制者(皇帝)が支配する国家の兵というのは、つねにそういうものであった。独裁者の機嫌を損じまいとする官僚たちの保身のために兵たちは死なねばならず、死んでもむろん、そういう国家の兵士である以上、その死は当然な死であり、さらには皇帝と表裏一つになっているギリシャ正教の宗教的権威がかれらを天国へ送りとどけてくれることだけはたっぷり保証されていた。

(またあれをやるのだ)
という兵士たちの絶望的な思いが、眼前のロシア軍陣地をもって「小旅順」ととなえしめたのであろう。日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれてしまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。

型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型そのものであった。
ついでながら型をもっとも種類多く諳記している者が参謀官になるという習慣が、日露戦争後にうまれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になった。その日露戦争の型をもって滑稽なことながら太平洋戦争までやってのけるという、他のどの分野でも考えられないほどの異常さが、軍隊社会においてはむしろそれが正統であった。
「日本軍は奇妙な軍隊である。そのなかでもっとも愚かな者が参謀懸章を吊っている」
と、太平洋戦争の末期、日本軍のインパール作戦を先制的にふせいでこれを潰滅させた英軍の参謀が語っているように、軍人というのは型のどれいであり、その型というのは、その軍隊と、それが所属する国家形態がともどもにほろび去るまでほろびない。さらに例をあげれば、天才は型の創始者であり、戦術家としてのナポレオンは自分の編みだした型として存在した。かれはその型によってヨーロッパを席巻し、その型が敵に対して通用しなくなったときに、型とともにほろんだ。

ただこの清河城の東南陣地攻撃にあたって、「型」が敗北したとき、それに気づいたのは、精強なはずの第十一師団の参謀長斎藤力三郎大佐ではなく、老兵師団としてばかにされていた後備第一師団の参謀長橋本勝太郎中佐であった。
「いつもの白兵突撃では犠牲が大きいばかりで効果がない」
と、かれは弱兵師団に属しているだけに、弱兵でも勝ちうる方法を考えようとした。
このためかれ自身が敵前まで進んで地形や敵陣地の偵察をし、とくに死角を見つけようと努力し、ほぼその角度を発見した。

クロパトキンが絶対権力をもっている以上、その作戦がたれの目でみても誤りであったところで、それを制限できるような制御装置がロシア軍の統帥部には構造として存在しなかった。このことはバルチック艦隊のロジェストウェンスキーにおいてもいえるし、それを国家規模に拡大してみても、ツァーリズムそのものが、そうであった。

この師団のこの日の前進ぶりは、この時代の日本陸軍の質がどういうものであるかをよく象徴していた。
師団が運動すべき空間は、積雪におおわれた鏡のような平原で、高地に布陣するロシア軍からみればこの白い平原にネズミがいっぴき走ってもすかさずとらえることができた。
ところが第九師団一一四二八人は、よく照準されたロシア軍の銃砲火をあびつつも、あたかも練兵場をゆくように整々とすすんだ。
とくにこの師団の第九山砲連隊の前進に対してはロシア軍の砲弾が集中した。かれらは敵との距離四キロの地点から敵にむかって前進を開始し、ニキロ半すすみ、予定陣地に入ったが、この間、宇治田という連隊長の体をつらぬいて砲弾が炸裂し、閃光と砲煙が消えたとき、宇治田は人馬もろともに消えてしまっていたが、すぐさま他の者が指揮を代行し、隊列はすこしもみだれることなく前進した。

もしこの段階において、日本軍がこの戦役の初期にそうであったように機関銃をもっていなかったとすれば乃木軍は左翼から崩壊し去ったであろう。この危機を救ったのは、高等司令部の戦術でもなく、士卒の勇敢さでもなかった。乃木軍の最左翼がもっていた五挺か六挺の機関銃が、銃身が熱くなるまで火を噴きつづけたことによって、クロパトキンの大機動軍(歩兵三十個大隊)が、退却したのである。この場合日本軍機関銃のためにくずれたというより、その発射音におどろき、ロシア軍はこの大逆襲を断念し、退却した。機関銃のおそろしさが、日露両軍ともにそこまで骨身に沁みていたのである。

大小の火砲の命中能力になると日本砲兵が格段にすぐれ、一方、小銃の狙撃能力についてはロシア歩兵のほうがすぐれていた。
日本砲兵が射撃にすぐれているのは、民族的能力として計算力が達者だったからであろう。この点、ロシア砲兵の計算能力は一般的におとっていた。
日本歩兵の小銃による狙撃能力のへたさも、民族的性格かもしれなかった。小銃射撃には計算などは必要がなかった。気の走った人間が概してへたであった。

日本には少勝を得しめるべきである。
もし日本が大勝した場合でも、賠償を大きく要求させてはならない。そのためにルーズヴェルトとしては日露の和平のテーブルをかれみずからが用意する必要があり、日本の過当要求をルーズヴェルト自身が削ってゆく必要があるためにかれは調停者になろうとしていた。
かれの本心は、当然ながらアメリカの利益に支点がおかれていた。かれは自国の海軍を拡充せねばならないという政策をもっていたが、このため日露戦争中からすでに、
「わがアメリカの太平洋艦隊を拡充しなければならない」
と考え、戦後鋭意そのことにあたった。そのことは、かれがのちに米国海軍をして日本を仮想敵とする遠洋決戦戦略をたてしめるにいたったことでもわかる。日露戦争におけるルーズヴェルトの胆略は、日本人が想像するような幡随院長兵衛式のものではなかった。

日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで、新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。

戦後、ルーズヴェルトが、
「日本の新聞の右翼化」
という言葉をつかってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の二月六日付の駐伊アメリカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」というものであった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。

ルーズヴェルトは日本に対して好意をもった世界史上最初の外国元首であったが、かれがいかに政治的天才であったかということは、日本が近代国家として成立して三十余年しかたたないのにその原型の本質を見ぬききっていたことであった。かれは日本のためにアメリカ大統領であることの限界を越えてまで好意をみせつづけたが、しかし同時にかれのおそるべきことは、マイヤーに出した手紙でもわかるように、戦後米国は日本から脅威をうけるだろうと予言し、米国の存在のためには海軍を強大にしなければならないと説き、しかも「わが海軍は年々有力になりつつある。この優秀な海軍力が、日本その他の国との無用の紛争を未然にふせいでゆくであろう」という意味のことをいった。

喋った内容は、ほぼこうである。
「日本政府はひどく臆病になっている。自分にはハッキリしたことを打ちあけておらないが、自分の察するところ、日本政府はバルチック艦隊の来航以前に講和を結びたい肚らしい」
ロシアのスパイならともかく、一国の外交官が他国の外政担当の長官に対してこういうことをいうべきではないであろう。しかもその発言の内容がまったくまちがっていて、日本政府の肚でもなんでもない。高平がなぜこのようなことをいったかは不可解というほかないが、日本人の気質の一典型として存在するおべっかをふくめた狎れなれしさ――というより相手に子猫のようにじゃれたいために、つまりは相手の心をこのようなかたちで攬りたいために――自分の属する上部構造の無知、臆病というものを卑屈な笑顔でぶちまけてしまうといった心理から出ているようであった。高平は一種酸っぱさのこもった謙虚の表現としていったつもりかもしれないが、要するにこの種の攬り入りかたを高平はしてみせたのかもしれない。

(第八巻より)

「東郷は若いころから運のついた男ですから」
というのは、山本権兵衛が明治帝に対し、東郷を艦隊の総帥にえらんだ理由としてのべた言葉だが、名将ということの絶対の理由は、才能や統率能力以上に彼が敵よりも幸運にめぐまれるということであった。悲運の名将というのは論理的にありえない表現であり、名将はかならず幸運であらねばならなかった。

日本史をどのように解釈したり論じたりすることもできるが、ただ日本海を守ろうとするこの海戦において日本側がやぶれた場合の結果の想像ばかりは一種類しかないということだけはたしかであった。日本のその後もこんにちもこのようには存在しなかったであろうということである。
そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつもしかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命におちいり、半年を経ずして全滅するであろうということである。
当然、日本国は降伏する。この当時、日本政府は日本の歴史のなかでもっとも外交能力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力学を利用してかならずしも全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうということは、この当時の国際政治の慣例からみてもきわめて高い確率をもっていた。
むろん、東アジアの歴史も、その後とはちがったものになったにちがいない。満州は、すでに開戦前にロシアが事実上居すわってしまった現実がそのまま国際的に承認され、また李朝鮮もほとんどロシアの属邦になり、すくなくとも朝鮮の宗主国が中国からロシアに変わったに相違なく、さらにいえば早くからロシアが目をつけていた馬山港のほかに、元山港や釜山港も租借地になり、また仁川付近にロシア総督府が出現したであろうという想像を制御できるような材料はほとんどないのである。

あらゆる意味で、この瞬間からおこなわれようとしている海戦は癸丑甲寅以来のエネルギーの頂点であったといってよく、さらにひるがえっていえば、二つの国が、たがいに世界の最高水準の海軍の全力をあげて一定水域で決戦をするという例は、近代世界史上、唯一の事例で、以後もその例を見ない。

皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ。

各艦とも、この信号文がすぐさま肉声にかわり、各部署の伝声管を通じて全員の耳につたわった。
旗艦三笠にあっては、伝令をつとめていた河合太郎翁も、かれのそばの伝声管にひびいてきたこの声をきいた。かれは大いそぎでそれを口移しに各パイプに伝声した。
当時、戦艦富士の後部十二インチ砲塔の砲員だった西田捨市翁も、この信号文を聴いた。伝声管の声はカン高く、しかも文語であるため意味はよくわからなかったが、この海戦に負ければ日本はほろびるのだというぐあいに理解し、わけもなく涙が流れた。

が、東郷はそれをやった。
かれは風むきが敵の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波が高いためたださえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、などをとっさに判断したに相違なかった。
「海戦に勝つ方法は」
と、のちに東郷は語っている。
「適切な時機をつかんで猛撃を加えることである。その時機を判断する能力は経験によって得られるもので、書物からは学ぶことができない」
用兵者としての東郷はたしかにこのとき時機を感じた。そのかんは、かれの豊富な経験から弾き出された。

東郷はかねて、
「海戦というものは敵にあたえている被害がわからない。味方の被害ばかりわかるからいつも自分のほうが負けているような感じをうける。敵は味方以上に辛がっているのだ」
というかれの経験からきた教訓を兵員にいたるまで徹底させていたから、この戦闘中、兵員たちのたれもがこの言葉を思いだしては自分の気をひきたてていた。真之でさえこの戦闘中、東郷の言葉を思いだしては自分の気持ちを保った。なにしろ東郷は、彼を補佐する真之がうまれたときにはすでに幕末から戊辰戦争にかけての数次の戦闘を経験した薩摩藩の海軍士官だったのである。
古今東西の将帥で東郷ほどこの修羅場のなかでくそ落ちつきに落ちついていた男もなかったであろう。

この海戦は、敵味方の各艦の性能や、各兵員の能力や士気より、日本側の頭脳がロシア側を圧倒したというほうが正確であろう。
ちなみにこの場合の「頭脳」とは、当然ながら天性のそれを指していない。考え方というほどの意味である。より正確にいえば、弱者の側に立った日本側が強者に勝つために、弱者の特権である考えぬくことを行ない、さらにその考えを思いつきにせず、それをもって全艦隊を機能化した、ということである。
とくに東郷は、
「海戦の要諦は、砲弾を敵よりも多く命中させる以外にない」
という平凡な主題を徹底させ、かれの戦略も戦術もこの一点に集中させたのである。いかなる国の海軍においてもこの時期の東郷ほどこれを徹底させた例はなかった。

この国はこの当時の日本がすでに国民国家を成立させていたのに、まだ王朝のままの状態でいた。士官は王朝の構成者であったが、水兵は単に民衆にすぎなかった。民衆が政治をにない、国家の安危を共同に分担するという政体ができないかぎり、近代にあっては他国と近代戦をやるというのは不可能であるかもしれなかった。

この天才は、敵の旗艦スワロフやオスラービアなどが猛炎をあげて沈もうとしているとき、そのこに勝ちを感ずるよりも、明治をささえてつづいてきたなにごとかがこの瞬間において消え去ってゆく光景をその目で見たのかもしれない。

タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , ,

関連ページ

"坂の上の雲"へのトラックバック

トラックバックURL:
  1. 司馬遼太郎を読む より:

    04年03月:記念艦三笠を訪ねる
    ちょうど坂の上の雲を読み終わった余韻が残る中、記念艦三笠を訪問しました。 三笠公……

  2. 司馬遼太郎を読む より:

    鳥取04年06月:仁風閣
    仁風閣は明治40年、当時の嘉仁皇太子(後の大正天皇)の鳥取行啓に際して御座所(宿……

  3. ”日々徒然” 副題:「賢明なる投資家」への長い道のり より:

    司馬遼太郎の長編 勝手に選ぶベスト5
    さて、やっとのことで(ほぼ)読み終わった司馬遼太郎の長編のお勧めベスト5を発表〜。1位 『菜の花の沖』商人(かつ船乗)が主人公ってのがいいです。お金儲け万歳!・……

  4. 司馬遼太郎を読む より:

    松山で秋山真之生誕祭 人柄などしのぶ
    司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に登場する明治・大正期の軍人秋山真之の生誕祭が21……

  5. 司馬遼太郎を読む より:

    駆逐艦「不知火」の錨
    両国の街を歩いていたら、船の錨を見つけた。近づいて見てみると日露戦争で活躍した駆……

  6. 上海ライフの達人 より:

    「やりたいこと」ではなく「やらねばならぬこと」をやすのが紳士である。
    坂の上の雲〈2〉 文春文庫 司馬 遼太郎 (著) (1999/01) 評価:★★…

  7. ズイフー!!ブログ - スプリングポイント より:

    司馬遼太郎さんを西洋占星術で占いました
    西洋 占星術 でみる本日晴天なれども波高し? 足を使っての取材能力? 表現力は共感を呼ぶ? …

  8. 時代小説県歴史小説村 より:

    司馬遼太郎: 坂の上の雲1
    【覚書】★★★★★★★★★★ 文庫第一巻。 司馬遼太郎氏の代表的な作品の一つであり、上位十位までのアンケート、もしくは五位までのアンケートをとってみても……

  9. クロルデンのおすすめ小説 より:

    坂の上の雲 (1) 司馬 遼太郎

    まだ序破急で言うところの「序」。 起承転結で言うところの「起」なので、そんなには面白さは感じられず。 まあ個人的に、ロシア戦争絡みが疎いこともあるんですが。(^^;; あと、正…

"坂の上の雲"のレビュー

(評価:5)
旅順について
レビュアー: shiba-ryo
2009-09-14
旅順のくだりは、読んでいて辛い。

旅順攻囲戦における日本軍の死傷者は約6万人。この数はその後の奉天会戦に比べると少ないのだが、旅順においてはほとんどが無駄死であり、しかも司令部と大本営の無能の犠牲になったという点が悲惨さを増している。

しかも司馬遼太郎の戦場の描写が非常にリアルで、まるで自分がそこにいるかのような感覚になってしまう。
自分の祖先たちが旅順という巨大要塞に対し、必敗の方程式である絶望的な白兵突撃を繰り返し、ロシア軍の火器の前で無惨に殺されていく。
その様子を思うと、戦慄し、いてもたってもいられない気持ちになってしまう。

唯一の救いは、旅順の英霊たちが「祖国のため」に死んでいったことだろうか。自分の死は祖国のためであり、決して無駄ではないと信じて死んでいったと信じたい。その魂は今も靖国で安らかに眠っていると思いたい。



正直、旅順はきつい。読んでいて思わず気分が悪くなってしまうほどだ。

けれど、この旅順にこそ日本の国家、民族の痼疾があり、直視しなくてはいけない点だと思う。


この旅順において発揮される日本の民族性は、現代でも濃厚に受け継がれている。


「旅順では、無能な上官のために、兵士たちの命が犠牲になった。」

「現代日本では、無能な上司のために、部下たちが時間と体力を犠牲にしている。」


人の命が失われてない(過労死というケースはあるが)という点をのぞけば、やっていることはまったく同じだ。

上司の命令が絶対であり、「みんながやってるから」「気合いだ、根性だ」など、論理性のカケラもない理由を疑うことなく、ひたすら従順であり続ける。


また、日露戦争における信賞必罰がうやむやになったことに象徴される、問題における責任の所在を明確にしない傾向があるという点も、現代において何ら変わっていない。

さらに戦後に乃木が軍神として称えらるなど、国家レベルで冷静さを欠き、壮大な"空気の読み違い"をしてしまったことも含めて日本の民族性を考えさせられる。


こうした日本人の精神性は、短所でもあり長所でもあるので、一概に良いとか悪いとか言うことはできない。

が、少なくとも自分は疑問を持っており、持つようにしたいと思っている。

個としての自分を、そして民族としての日本を自覚し、常に冷静に、客観的にこの民族を見つめられる姿勢を身につけること。そして必要のない犠牲を防ぐこと。それこそが、旅順で死んでいった英霊たちの供養になるのではないかと思う。
(評価:5)
教育について
レビュアー: shiba-ryo
2009-09-14
坂の上の雲では、おもに序盤、秋山兄弟と子規の幼少から青年期を通じ、明治初期の庶民の気風や国家の諸制度を描いている。特に教育について詳しく描かれており、明治日本が国をあげて教育に力を入れていた様子がよくわかる。

土地も狭く資源もない、米と絹以外にこれといった産業もない日本。あるのはただ人のみ。
そんな極東の小国日本が、ヨーロッパ文明という未知の世界に飛び込み、列強の侵略を防いで独立を守り、いずれは文明諸国の仲間入りを果たすという大目標(つまり、坂の上の雲)を追うためには、とにかく勉強しかない。

その姿勢が庶民のレベルまで浸透し、個々の教育熱、立身出世への情熱などが集合して国家の力の源泉となる。

維新の混乱を経たにもかかわらず、日本が若く、初々しく、エネルギーにあふれた国家たりえたのはそうした明確なビジョンがあったからで、明治日本の集大成となった日露戦争を勝利に導いたその土台は、間違いなく教育だったと思う。


特にそれを感じさせるのが、日露戦争の主役が信長やナポレオンといった偶然の産物である"天才"でなく、計画して育成された必然の産物である"秀才"たちであり、かれらに任務をあたえ、急激な近代化と日露戦争の勝利という目的を達成したという点だ。
つまり日本は国をあげて30カ年の教育を中心としたプロジェクトに取り組み、それを成功させたと言ってよく、これは世界レベルで見ても非常に稀な偉業だったのではないかと思う。


そして100年後の今日、ゆとり教育や学力テスト結果の開示禁止など、教育を軽視する姿勢が見られるようになってきた。
また日の丸掲揚や国家斉唱を拒否をして、愛国心を否定する動きも出てきている。

こうした教育方針は、国家として、そして個人としてのエネルギーを失わせる結果になるだけだと思っている。


今後の日本がどうなるのかはわからないが、ひとつ確かなのは

「日本の唯一の資源は人であり、人を育てるのは教育しかない。」

ということだと思う。
司馬遼太郎はそのことは明言はしていないが、坂の上の雲にはそうしたメッセージが、具体的な成功例とともに込められていると感じた。
(評価:5)
大和日本が初めて輝いた瞬間
レビュアー: サカキバラ
2005-08-24
「日本」と言うのは、無土器時代~弥生時代になって、ムラ単位・クニ単位の考えが生まれ、大和朝廷によって統一され、武士が生まれて幕府に三度もまとめられながら、その間「世界史」に名を連ねた事は殆ど在りませんでした。

 日清・日露戦争とは初めて日本が世界情勢を一変させた時でした。
それだけに日本は慎重に作戦を練り、日本は世界中の国に、
「ロシアに勝った」
と思い込ませるだけの敢闘をしつつ、資金と兵力をやりくりし、外交のほうにも手を向けて講和の機会も見定める。
 まさに国家が綱渡りのような緊張の中で、危なっかしくも、何とか間違わずに進んでいったのです。

 これは戦争を美化し称賛する程退屈な本では在りません。
 このようなプロジェクトを見事遂行した、先人たちを鋭く爽やかに描ききった小説なのです。

 読み終えたあと、束の間静かな感動に包まれます。
 そして日本人をいとおしく思うでしょう。

(評価:5)
日本人としての誇り
レビュアー: shiba-ryo.com
2005-05-15
僕がこの長編歴史小説を読んで得た一番大きな収穫は、「日本人としての誇り」を持てたことだと思います。

国家と民族の尊厳を守るため、戦争という巨大プロジェクトを完璧なまでに遂行してロシアから勝利を得たという事実にただただ素直に感動し、そして自分がそれを成し遂げた明治人たちの子孫であることを誇りに思いました。

読む人によって感じることはさまざまだと思います。が、この明治の偉大な軌跡から学ぶことは本当にかけがえがないものです。
ぜひ一人でも多くの人がこの小説を読み、大きな何かを感じることを願います。


レビューを投稿する