街道をゆく (3) 陸奥のみち、肥薩のみちほか
読み:かいどうをゆく むつのみち、ひさつのみち
ジャンル:紀行文
収録:陸奥のみち/肥薩のみち/河内みち
内容
田原坂は、熊本旧城下の北西の台上にあって、その一帯の大地の西端は有明海に落ちこんでいる。田原坂という坂そのものはさほどの傾斜でもないが、そのあたりの地形は複雑で、坂の左右は谷であり、一見、自然な長城をなしている。ここを守った薩摩軍の地形眼はみごとというほかない(本文より)
印象に残った一節
日本の奈良朝の仏教政治は、食肉を禁忌にしてしまっただけでなく、在来からあった穀物への神聖思想というふしぎな宗教意識(神道)をいよいよつよめた。伊勢神の外宮の祭神が穀物神である豊受大神であるように、また、上代以来こんにちにいたるまで宮中における最大の神聖行事のひとつが新穀を神々に捧げるという十一月二十三日の新嘗祭であるように(戦前はこの日が祝祭日になっていた。現制では勤労感謝の日ということになっている)、また民間信仰にあっては穀物神である稲荷の信仰がさかんであるように、われわれにとって弥生式水田農業はいまなお神として遺っているのである。
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日本人は均一化を欲する。
大多数がやっていることが神聖であり、同時に脅迫であり、従って南部の土地でさえ米をつくらざるをえず、もし作らねば世間の仲間にいれてもらえないようなはめになる。(もっとも、江戸体制で米をつくらない唯一の藩として北海道の松前藩があった。松前藩はコンブなど水産物を大坂に送って換金し、藩の主要財源としていた。しかしそれでも換金してコメを買って食っていたからコメの藩であり、コメこそ獲れなかったが、幕府は松前藩が十万石のコメを買う実力ありとして高は十万石であった)
久慈街道という、沿道に飢餓の口碑が無数にある古街道をゆくにあたって、コメに執着し、稲作を中心に文化意識をつくりあげ、ついには稲作をめぐて階級身分までつくりあげた日本人のこのふしぎさをついおもわざるをえなかった。
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この農業が西日本でテストされ、多数の人口を養ううえであまりにもすばらしいものであったために、日本人は歴史的にコメに甘え、この農業を中心とした社会と宗教とモラルをつくり、それを水田耕作には不適地の東北にまで及ぼした。工業が興れば工業に殺到して工業に甘えるというふうの、国土経営に冷厳な感覚と能力をもたない民族的性格ができあがったのは、この民族を二千年にわたって養ってきてくれた弥生式水田農法があまりにもすばらしすぎたことによるといえるかもしれない。南部ではこの甘えに復讐された。いまは工業への甘えに復讐されているというのは、モトはおなじということの繰り返しであるようにおもえる。
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戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県といわずに宮城県、盛岡県といわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている。
官軍の主力はいわゆる薩長土肥だが、その肥の肥前佐賀藩などはあれほどの小地域で立派に一県なのである。本来いまの長崎県内に入るはずだったのが、肥前出身の高官たちが、「わが藩の版図を県として残すべきだ」として佐賀県ができた。
権力のおかしさのひとつは、それがひどく感情的であるということである。
――南部藩は賊軍だった。
という好悪の感情でもって、小南部八戸の地をうむをいわせず青森県にほうりこんでしまったのである。
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薩摩には敵に対する優しさの話が多い。たとえば豊臣秀吉の朝鮮ノ役のときもっとも武勇のたけだけしかったのは薩摩の島津氏であるといわれ、このため明軍のあいだでもとくに薩摩兵のことを「石曼子(シーマンズ)」といっておそれた。その島津氏が、帰国後、高野山に敵味方の戦死者の供養塔をたてているのである。敵味方ともにその無名戦士を平等に供養したという例は当時日本にはなく、その後にもない。同時代の世界にもないことで、むしろ異様なことに類する。戊辰戦争のときも薩摩人の旧幕府方に対するあつかいは、西郷の江戸城開場のあつかいだけでなく、出羽庄内城の降伏の場合も「どちらが勝利者かわからない」といわれたほどに薩摩側は寛大で態度も鄭重だったし、五稜郭の開場で榎本武揚以下全員の命をたすけたのも薩摩の将黒田清隆だった。クマソタケルを優しくていい男だといったふうな薩摩独特の美意識は、文献や実例としては中世末期から近代初頭まで濃厚につづくのだが、ひょっとすると、上代の倭国における南方独立圏がつくりあげた独特の気分であったのかもしれない。
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要するに日本歴史というものは国内統一をする場合に英雄が出る。源頼朝とか織田信長、前期の豊臣秀吉、そして徳川家康、あるいは倒幕革命政略における西郷隆盛といったような、他の国の歴史に類型のすくない人物が出るが、この民族の歴史にまれにあらわれる海外への膨張気運のおこる時期には、その時期の好戦的指導者はかならず凡庸なお調子者にすぎなかったという実にふしぎな法則をもっている。戦後の日本の社会科教科書はヒトラーやムッソリーニを呪い嘲けるが、しかし、ヒトラーやムッソリーニすら持たずにそれとそっくりの似たまねをした昭和前期の日本というもののふしぎさを解明した教科書があるだろうか。
日本史におけるこの民族の海外膨張が堅牢な世界政略をもたず、むしろ村の祭礼に似て、神輿をかついだ若衆が勢いのあまり隣村に踏みこんで咆えちらしているのと本質においてすこしもかわりがなかったように、相良氏が人吉盆地を出て外界に勢力を伸張させたのも、あくまでも時の勢いに乗っただけであり、統制力と計画力をもった英雄の出現によるものではなかった。
だから時勢がおさまると、
「入りて之を守る」
というふうに山へ帰り、天嶮ともいうべき人吉盆地にひっこみ、「悪い夢をみた」といったふうに、わずか二万何千石かの小天地で自足するのである。太平洋戦争のあとの日本国にじつに似ている。








