街道をゆく (13) 壱岐・対馬の道
読み:いき・つしまのみち
ジャンル:紀行文
収録:壱岐・対馬の道
内容
壱岐・対馬の歴史的存在は、古代における輸入鉄の海上輸送の経路に浮かんでいるということで、神話や伝承の上での不可思議な相貌を帯びているのである。もし鉄という媒介がなかったら朝鮮から日本へ人間が移動するということもすくなかったであろう。(本文より)
印象に残った一節
当時もいまも日本と朝鮮の関係は複雑である。隣国との関係はたがいに堂々たる他人であることが結局真の親善につながることなのだが、この原則を外すと、隣国だけにすぐ糸が鳥の巣のようにもつれてしまい、最後に感情がむき出すか、もっとわるい事態になる。
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水田農耕の村というのは生産の場である以上に、共同体のなかでの社交の場であった。家々とのつきあいはじつに繁縟なもので、さらにいえば人と人とのふれあいは子猫の毛のように柔らかでなければならない。水田農村に住んでいると、精神がかぶっている皮膜が他人からの批判に極度に敏感になり、物笑い、噂というものをおそれ、ひとの言葉が刃物のように感じられてくる。
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漁業は、太古以来ごく最近まで命がけのしごとであった。技術もむずかしいが、個々の才能によって獲れ高がちがうことは農の比ではない。農は勤勉でさえあれあば、ある程度なりたつ。勤勉は農の徳とされた。さらに、徳についていえば、この漠然とした輪郭と内容をもつ倫理概念がうまれたのも、農業帝国であった古代中国からである。漁業の場合、徳があるからといって魚が寄って来もしないし、獲れもしない。
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宋助国はこの浜で矢戦をし、馬をかけあわせ、二時間ほどもたたかったあげく、助国父子、養子、その他おもだった者ことごとくが戦死した。死ぬためにこの浜まできたのである。
当時、蒙古軍は博多港へ上陸するための船泊りとして対馬の佐須浦に寄港したにすぎないであろう。総勢わずか八十余騎なら山中にかくれているうちに艦隊は出発する。しかし隠れていたとなれば宋氏の子孫はふたたび武士として世に立てず、まして対馬の地頭代の地位からも墜ちてしまう。この時代よりすこし前の荘園の武士の間に普及した一所懸命(自分の地所に命をかける)という姿勢は、こういうものであったにちがいない。鎌倉という非儒教国にあっては、礼教的倫理よりも利と美で生死するのである。
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