街道をゆく (15) 北海道の諸道
読み:ほっかいどうのしょどう
ジャンル:紀行文
内容
道南の函館では『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛、この町で布教したロシア正教のニコライ神父の生涯を考える。江差港には、幕府海軍の主力艦で、沈没に榎本武揚が戦意を失った開陽丸が眠る。旅のクライマックスは道東の陸別。『胡蝶の夢』の主人公のひとり、関寛斎の終焉の地でもある。晩年に極寒の地を開拓、深く慕われつつ劇的に生涯を閉じた。今は妻と眠る寛斎への筆者の思いは深い。
印象に残った一節
が、イネは北海道では根づかなかった(はるかな後世の幕末にほんのわずか試みられた)。
稲作に不適だと八世紀、九世紀ごろにわかったことが、あまりにも稲作的な本土社会と北海道との交渉をその後の歴史において稀薄にした。言いかえれば稲作文化的な画一的ローラーから北海道はまぬがれることができ、さらにいえば、アイヌとその文化という非稲作的要素をのこすことになった。
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人間を極端な寒さから守るという点で、日本ではそういう思想そのものがなかった。思想がないためにそういう住居構造が開発されず、カンも用いられず、むしろそれを用いて独自の文化を造れば中央文化と均一になれないという怖れのほうが思想として先行していた。ところが「中央文化」が数寄屋普請の京都文化でなくなり、アメリカで発達した空気調整文明が「中央」になると、あっというまに湯川も――むろん湯川だけではないが――その式にかわった。日本人が新しいもの食いというのは、多分にうそである。「中央」への均一化という意識にたえずうごかされているにすぎない。
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小川を欲しがるようになるのは弥生式稲作農耕が入ってからで、水利をめぐって部落単位に争うようになった。
和人の基本的属性ともいうべき集団を組んでの闘争好きは――同種企業間の凄惨なあらそいぶりをみても――このことが基調になっている。私が陸軍の初年兵にさせられたときに目をみはるほど驚いたのは「隣の内務班に負けるな」という指導であった。班内の掃除、整頓、訓練、あるいは舎前の整列のスピードから飯上げの速さにいたるまですべて五十人単位の隣りの班との苛烈な競争であった。隣りの班が敵よりも敵であるという教育原理(もしくは方法)はやはり水田農村の型だとおもった。
この痛烈なほどの一種の社会原理は、こんにちでも農村にのこっている。一つの思いこみとして、隣りの村は世界中のどこよりもいかがわしく、悪念と悪謀に満ちた人間のむれで、油断をしていれば何をするかわからないという解明不要の心理が心のどこかにつねに蟠っている。
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洋式海軍であれ、和船の漁師であれ、海の技術はあらゆる危険の可能性についての予防措置を講ずることなのである。それをしない者を素人というのであろう。
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貧困がずっしりと居すわった社会においては、あてどもなく東京へ出てきた農村の潜在失業者に甘い息をふきかけるのはなんでもなかった。こんにちでも、結果のわかりきった――さらには生活に困っているわけでもないのに――サラリーマン金融の金を借りるひとが多いことをみても、人間というのは本来あまくできているのである。








