街道をゆく (17) 島原・天草の諸道





読み:しまばら・あまくさのしょどう
ジャンル:紀行文

内容
長洲の西は天草灘であり、東は富岡湾である。・・・・・・天草は、旅人を詩人にするらしい。まして詩人が旅人であれば、若い日の北原白秋たちがそうであったように、泣き沙のなかにはるかな西方の浪の音まで聴きわけ、歴史という虚空のなかにまで吟遊して歩く人になるのかもしれない(本文より)

印象に残った一節

この時代、ふつう一万石で戦闘員が二百五十人といわれたから、四万石余ならざっと千人余である。そのうち足軽が七、八百人であるとして、人数を超える火器を一時にそなえたのである。これがために領民がどれほど搾られたか、容易に想像することができる。

重政の神経は、この点でおびえることがない。
この点でおびえることがないというのは、重政は本質的に政治家でなく、いまでいうやくざだったのだろうか。家康が見込んだのも、その点だったにちがいない。

牛馬が道を通っても税をとり、畳を敷けば税をとり、子がうまれれば人頭税をとり、死者を葬る穴を掘れば穴税までとった。真偽はわからないが、茄子一本の実の数まで役人がやってきてかぞえ、何個かを税としてもって行ったという。
領民として一揆に立ちあがるのが、当然であった。が、生存権をまもるという段階は通りすぎていて、もはや早くこの世を去るために結束するという絶望的なところに追いこまれていた。島原ノ乱の民衆蜂起の動因は、切支丹の要素は第二次的であったといっていい。

当時、ヨーロッパでのカトリックの組織や神父たちは、自然の一部のようになっていたし、同時にそのぶんだけ堕落していた。自然界に細菌や腐熟が摂理としてあるように、よく根づいた宗教は、そのぶんだけ緊張をうしなっているものであったが、誕生早々のイエズス会のみはまったくちがっていた。

忠誠心という、この甘美な精神は、中世のひとびとの多くに、原液として湛えられていたかと思える。ただ農民の場合、その対象がなく、武士の場合も、地上のなまの主人もさることながら、天国の支配者であるキリストに仕えることのほうに強烈な昇華を見出したのではないかと思える。こういう点でも、インドや中国の社会よりは、当時の日本の社会のほうが、切支丹受容にむいていたであろう。すくなくとも、神への激烈な忠誠者としてやってきたイエズス会の会士の風姿に接したとき、当時の日本人はその面からもよく理解できたかのようであり、ザヴィエルが、「東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している」と、報告したのも、むりもないことかもしれない。

人間の諸現象のなかで、人間が人間を苛るということほど胸の悪くなることはないが、とくに苛め側が正義や使命感を持ったとき、悪魔以上のことをやるらしい。徳川官僚にとって切支丹退治というのは政権から与えられた強烈な正義であった。

領主は領民の世話人という姿勢がすでに織豊時代にあり、その代表的存在として丹波における明智光秀、北近江における石田三成、肥後における加藤清正などをあげることができる。
これに対し、農民を農奴と考え、権力の本質を兇器に変え、つねに切尖を領民の心臓に擬しつつかれらを言いなりにしてしまおうという姿勢をとるのが、ごろつきの政権といっていい。こんにちも存在する。会社にもある。社長という存在がもつ人事権を兇器に変えてほしいままに物事を操作するやりかたで、それをもっとも簡素にしたのが、機内におけるハイジャッカーの権力と権力形態であろう。

島原ノ乱の本質は、宗教一揆ではなかった。
すでに述べたことだが、ザヴィエルの上陸と布教以来、地方領主で切支丹を弾圧した例は数えるのにわずらわしいほどである。また秀吉政権の末期には全国的に禁教になった。それでも切支丹一揆というものがおこったことがない。むしろこの当時のイエズス会やフランシスコ会は、殉教によって天国にゆけることをよろこんだ。多くの会士みずからが率先して殉教し、また無名の奉教人たちは、キリストが磔台から昇天したように自分もそのようにして天国の門に入れることを選んだ。ついには拷問者たちは、その宗教行為の協力者のようなかっこうになった。弾圧に反対して一揆をおこすようなことは教義の上でもありえなかったのである。
このことは、乱のあと幕府が松倉の政治を調べたときあきらかになったはずで、であればこそ勝家は打首になった。勝家は幕府の公方針である切支丹弾圧についてはよくやっていたから、乱の責任をとらされるにしても、せいぜい切腹であろう。
切腹は武士の名誉を重んじて死が慫慂されるという形式で、厳密には刑ではない。打首は、刑である。それも大名に対して用いられたのは、徳川期を通じ、絶無か、まれであったのではないか。乱の原因が、切支丹の存在そのものにはなく、松倉勝家の政治にあったということを幕閣が知ったのであろう。

第一、島原ノ乱の直前には、この半島には表面上、切支丹は顕在していなかった。本心はどうであれ、恐怖政治によってたれもが棄教していたし、それに宣教師も殺され、また追われて、ひとりもいなかった。
「島原ノ乱は、切支丹一揆である」
とするほうが、むろん幕府には都合よかった。切支丹はおそろしいものだとすることで、乱の鎮圧側に参加した武士たちへの禁教訓練になったし、またこの教訓による禁教の徹底は全国にひろげられ、幕府瓦解までつづいた。

重昌がわるいのではなく、中級官僚という、人類がつくりだした人間の一典型はそのようにできあがっているのである。人間の生命とか天下国家はこの型にとっては閑人の話柄で、国が亡びようと人が死のうと、自分に与えられた業務上の主題を針の穴のように小さくし、針の尖のようにするどくしている。

南蛮船がくるようになってから、九州の諸大名は、貿易と信仰で物狂いした。
当時、天草諸島は、五人の小領主たちに支配されていたが、そのひとりである志岐鎮経などはいち早く宣教師を誘い入れ、教会をたてたが、目的は南蛮船貿易の利にあった。志岐鎮経がよびこんだために、一五七〇年、ポルトガル船が志岐の港に入ったが、先方のほうがおそらく当惑したにちがいない。天草は地味痩せ、特産物はなく、売るべきものはなく、また買えるような金銀も持っていなかった。志岐鎮経は単に貿易と信仰の流行にうかれただけだったのであろう。
結局、ポルトガル船が天草の志岐を見限って逃げだし、他の大きな大名の国々へ行ったことで腹をたて、せっかく招致した宣教師も追いだし、信者になった領民にも棄教を命じた。なんとなく滑稽で、多分に演劇的要素に富んだ志岐鎮経の本音こそ、この時代、九州の諸大名をゆりうごかしていた切支丹熱の大名レベルでの本質であったろう。

「日本の合戦に裏切りということがよくおこなわれるが、これがわからない」
と、よく西洋人がいう。むしろ日本史の大合戦は裏切りによって勝敗が決せられた。
このことは、源平以来の大合戦における大軍形成の組成法が、中国や西洋の多くの場合と異なるためである。
地方地方の無数の小独立勢力(戦国における地侍が、その典型である)が、一個の大勢力の誘いによってその傘下に入り、臣従するのではなく、大合戦という一時的な現象のなかで連合をなすというものであった。
天草五人衆が、かつては大友氏に属し、ついで異教徒の島津氏に属し、さらには天下人を称する秀吉に属したというのは、裏切りという倫理観念で見るべきではなく、むしろ小勢力の独立性とか主体性とかいう点で理解したほうが、より本質的といっていい。それが、当時、日本国の山野に何千と存在した(肥後だけで五十二人)数千石級以下の小領主の生態ともいうべきものであった。

国侍、国人、国衆とよばれた天草五人衆のような小領主は、織田家や豊臣家の直侍(たとえば加藤清正、小西行長)とはちがい、先祖伝来の「本領」というものをもっている。
大勢力に属することは「本領安堵」を得たいためであり、近代風に言いかえれば、小天地での「独立」を保障されたいためであった。こういう型が、資本主義社会になっても、一企業の傘下に必ず存在する下請会社、系列会社というかたちのなかで生きつづけていることについては、組織民俗学とでもいうべき思考法が必要なのではないかと思えるほどである。

戦国末期、国衆が、越後の上杉氏の場合のように広域を統一する大名を押したててその家臣団に組み入れられたり、一方、南山城(現在の京都南郊)のように国衆が連合して中央勢力の介入を阻んだりした。加賀一揆といわれる現象は、加賀の国衆が浄土真宗を接着剤として大連合し、既存の守護大名である富樫を倒したというもので、二十年間、国衆による共和制を布き、やがて織田信長によって攻めつぶされた。
加賀一揆のような一種の共和制は、うわべはきらびやかに見えるが、国衆個々の実態としては、遠い古墳時代からつづいてきた農奴制の上に立つものともいえる。

家康は、周到な男であった。
右のことだけではたかをくくらず、大坂ノ役のあと、九州には特に大きな単位の大名を置いたという思考のなかに、万一の外寇に備えたという要素が入っていたかと思われる。たとえばそれらの大大名というのは、

筑後久留米の田中氏三十二万五千石(のち久留米は有馬氏二十一万石)
豊前小倉の細川氏三十九万九千石(のち細川氏は肥後熊本五十四万石)
肥前佐賀の鍋島氏三十五万七千石
薩摩の島津氏七十二万八千石(のち七十七万石)。

といったようなかたちで、他地方にくらべ、壮観というほかない。
徳川家の大名配置の体制は、中国・四国をもふくめて石高の単位が大きく、東にゆくにつれて小さくなってゆく。加賀の前田氏百十九万二千石(大坂ノ役の直後)、仙台の伊達氏六十一万五千石(同上)は、例外的なものである。
このことは、国内統御の計算に加えて、西から外国勢力がやってくるという想定が、計算要素のなかに十分入っていたかと思える。

切支丹に対する弾圧の本格化は秀忠の晩年から助走がはじまり、家光とその官僚団の時代になって惨烈をきわめるようになる。国家というものを大きな立場から寛濶に運営してなお統御できるという自信がなくなった場合――政治が矮小化した場合――国内における少数分子――異教徒――への締めあげが凄惨なものになってゆくものらしい。
むろん、家光政権の不安は、それだけではない。豊臣恩顧の大名の取りつぶしによる牢人の増加とか、商品経済の勃興、または幕府が公役によって大名の財政を締めつつあることによる農村の窮乏などが、家康在世のころにはなかった現象として出てきた。
――切支丹などは、八ツ裂きにして殺してもいい。
という狂気が支配層におこるのは、以上のような歴史事相とかかわりがある。

しかし、五人の衆は、その耳をみずから閉鎖したのであろう。
――もはや、戦国の世ではないぞ。
と、たれかが冷静に諭したところで、無駄であったろう。奇妙なことだが、戦国という乱世ほどひとびとの思考態度は冷静で、思考法は合理主義的であり、決して政治や宗教についての集団妄想はおこなわれないのである。
集団妄想は、むしろ治世の産物であった。

日記の書き手が得た情報では、島原の農民の決議というのは、

大勢が長い間かかって死ぬよりは、一度に死のう。

というものであった。表現はこの通りではむろんなかったろうが、一揆にたちあがった島原領民の気持が端的にあらわされているような気がする。
これに対し、天草勢の幕僚は、益田四郎時貞という少年を聖者に仕立て、奇蹟をあらわさせたりするだけあって、どこか策略っぽく、どこか戦国生き残りの不遇牢人くさい法螺のにおいがする。

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(評価:5)
島原ノ乱の本質
レビュアー: shiba-ryo
2009-06-06
歴史の教科書で習う島原ノ乱といえば

・徳川幕府の切支丹禁制に対する反発が原因の、いわゆる聖戦
・天草四郎時貞といえば聖者のような存在で、島原の乱の総大将で一揆軍の指揮をとっていた

という印象があります。自分はこの通りの認識でした。

それが本作では

・乱の原因は藩主松倉重政・勝家の圧政であり、宗教戦争としての要素はほとんどなかった
・天草四郎は幕僚に担がれただけの存在で、自らの意志はほとんどなかった(と思われる)

と指摘しています。

自分の中で20年近く固定していた島原ノ乱に対する認識がすべて覆され、目からウロコでした。もちろんいい意味で。


本作はほぼ全編が島原の乱について描かれています。

狂気ともいうべき圧政を通し、人間の恐ろしい、おぞましい一面が見られます。読んでいて重く、苦しいです。

が、逆にそうした極限の状態から、司馬遼太郎は人間や集団の本質を鋭く抉り出しており、ものすごい読み応えがあります。

扱う題材が題材だけに、街道をゆくシリーズの中でも強烈な印象を受けた一冊でした。


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