街道をゆく (28) 耽羅紀行
読み:たんら(たむら)きこう
ジャンル:紀行文
内容
耽羅国といえば、常世の国といったふうの夢の異国のようにも思えるし、また一方『魏志』倭人伝の末盧国に似た風俗があったようにも思え、また大きく海上に円をえがけば古代の倭国と仲間の文化圏を構成していたのではないかという想像も、ひろびろとひろがってくるのである
印象に残った一節
私にも、若いころからそこへ行ってみたいという念願の地があった。
モンゴル高原と、ピレネー山脈(フランスとスペインの国境)のバスク地方については、すでに思いを果たした(第五巻『モンゴル紀行』、二十二、二十三巻『南蛮のみちI・II』参照)。残るのはアイルランド島とハンガリー平原と済州島である。
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知的で無私で情熱的な持続力をもった面白がりが、たくさん居れば居るほど、その社会は上等――といえば語弊があるが――楽しくなるのではないか。
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福沢は、個人の自主独立が国をつくるのだ、個人が国にぶらさがっていては国家の独立など望めもせず、保てもしない、すべての個人よ、独立せよ、と説きつづけたが、まことにみごとなことに、済州島の全島緑化は公がやったのではなく、私がやったのである。それも、儲かるからやったのである。儲かる――経済的独立――こそ済州精神ではあるまいか。
それもマネー・ゲームで儲けようとするのではなく、農業や園芸という、人間がもっとも古典的に流す汗によって自立しているのである。
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この国では、十親等まで親類なのである。ついでながら親子は一親等、祖父母と孫は二親等で、兄弟も二親等、従兄弟は四親等である。ここに人間一人が存在すると、十親等までだと数万人が親類になる。
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済州島は石ころが多く、土壌の厚みは平均三〇センチ程でしかなく、地味は痩せきっている。しかも十五、六年前までは田畑にひけるほどの水がなかった。そんな山地に育ったひとは他郷にゆくとよくがんばるのである。金寧は済州島のなかでもとくに地味が痩せているそうである。肥沃な地にうまれたひとは、肥沃さに頼る。
金寧の出身者は、自分以外に頼るべきものはないということをうまれついて知っているのにちがいない。
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たしかに、李氏朝鮮名物ともいうべき党争を、歴史的体質、もしくは民族的体質としてみるべきではない。
むしろ、権力がただ一種類のドグマ(この場合は朱子学)を是としている場合、どの国、あるいはどの政治団体でも、凄惨な党争がおこらざるをえない。世の中が進んだおかげで、敗けたセクトに属する人達でも処刑されずにすんでいるのではあるまいか。
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朝鮮における党争は官僚のあいだだけでなく、士をまきこんで闘われた。全土の支配階級を二分したり、四分五裂したりして、たがいに反目嫉視しあった。
宣祖はその積弊をあらためようとしたのに、逆に党争のほうが、バケモノのように大きくなった。政治家が党争しはじめると、それそのものが目的になって、王も国もわすれてしまうものらしい。
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本来、社会は生きもので、経済によって変化してゆく。このいきものをドグマの鉄の桶に入れて鉄のふたをしておけるものではない。
が、李氏朝鮮はそれをやったのである。五百年不動という世界史的な大実験をやってのけたのだが、ふと考えると、いまドグマの鉄の桶で社会をキムチのように漬けこんでいる国は、たとえばソ連かもしれない。ソヴィエト体制下になってざっと七十年になるが、なお今後も教義で人間と社会を漬けこもうとするなら、ぜひ李氏朝鮮五百年史を研究する必要がある。(もっとも、ソ連の唯一の価値であるマルクス・レーニズムは科学技術という”実学”を包摂するし、回教圏もそういう”実学”をタブーとはしなかった。それでも回教圏は、十三、四世紀以後、衰退の一途をたどった。この点、李氏朝鮮は頑固というほかない。)
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儒教社会では、年長であることが価値なのである。李氏朝鮮のむかし、おとしよりが長いキセルでタバコを吸っているのを思いえがくといい。そのとしよりは老眼鏡もかけている。
老人の前で若い者がタバコを吸うというのは、若僧のくせに老人ぶるということで、いわば僭越きわまりない。めがねということでも同じである。二、三十年前までは、近眼の若者が老人の前に出るとき、常用のめがねをはずしたものであった。むろん近眼鏡は老眼鏡ではない。しかしめがねが伝来してきた最初は、めがねといえば老眼鏡しかなかった。このためめがね一般が老眼鏡とみなされて、老人の前でそれを着用することは礼を失することになった。
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神道をアジアの規模で観察した歴史家津田左右吉(一八七三~一九六一)が、昭和十五年不敬罪で起訴されたりしている。私は、津田を起訴した側の思想を単純に”右翼”だとして片付けようとはおもわない。民族というのは、そういう時期がある。
しかし民族精神というのは剛健であるほうがいい。津田左右吉が起訴された昭和十五年というのはずいぶん日本民族の卓越性が鼓吹された時代だったが、実際には自信がなかった時代だったのかもしれない。自民族についての合理主義的な検証に耐えられない民族精神というのは、本来、ひ弱いのである。
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ナショナリズムは、どの民族、郷党にもあって、わるいものではない。
ただ浅はかなナショナリズムというのは、老人の場合、一種の呆けである。壮年の場合は自己についての自信のなさの一表現かもしれぬ。若者の場合は、単に無知のあらわれでしかない。
日本にもこの種の浅はかさはいつの時代にも存在するが、韓国にもある。
「潜水漁法は、済州島の海女が、日本の海女に教えたのだ」
という人が済州島にいて、おどろかされた。こういう意見は心理学の対象であっても、認識に必要な手つづきをへたものとはいえない。私どもアジア人はもっと古代的な心のひろさを持てないものだろうか。
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いまの文明には、ばかげたところがある。
学校を濫立して、こどもたちをその檻に入れ、どの檻が上等で、どの檻が下等かと区別している。社会も両親もこどもたちをどんどん追いたてて等級差の檻に入れ、自他を区別づけることによって、社会意識として安堵している。身分制のない社会になると、広場恐怖症のネズミのような心理におちいって、右のような檻をつくることで(動物園ならありえないことだが)一種の身分的住みわけをやっているらしい。
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ともかくこんにちの段階の産業国家が当然、重教育主義になることはかまわない。しかしそのつぎの社会は、産業革命以後の社会を踏まえた程度では把握しがたいほど変った社会になるにちがいない。
おそらく――これは多分に空想だが――海女のような古代以来の技術が異常な尊敬をうけるような気がする。そのときもなお海女の風俗と技術が残っていてくれればありがたいのだが。
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君子ハ心ヲ労シ、小人ハ力ヲ労ス、というのは、日本ではあまりあてはまりにくいのである。戦国期の築城のときなどは、大名みずからモッコをかついで土を運んだ。作業士気を高めるための率先垂範ということなのだが、こういうことを同時代の中国や朝鮮でやれば、人心は離れるのにちがいない。
豊臣期に、加賀の前田利家がいまの金沢城を築くときもそうだった。この人は短気で、土を運びながら息子を叱りとばしたりしたから、あとでその夫人がたしなめたというはなしが残っている。豊臣期、伊予の松山城を築いた加藤嘉明も、みずから土をかついだ。その夫人は女中たちとともに現場の炊き出しをやった。まことに、非儒教国である。
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幕府はまず朱子学をもって官学とした。といって、譜代藩でも越後長岡藩のように藩学が陽明学だった場合もあるし、江戸中期以後は、日本的儒学ともいうべき徂徠学を採用する藩も多くなった。ただ中国・朝鮮と異なるのは、日本はあくまでも儒学であって、風俗習慣のすみずみまで支配するような儒教ではなかったことである。だから日本にあっては、冠婚葬祭も儒教ではなく、血族の秩序づけも儒教ではない。
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