街道をゆく (7) 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち
読み:こうがといがのみち、さてつのみち
ジャンル:紀行文
収録:甲賀と伊賀のみち/大和・壷坂みち/明石海峡と淡路みち/砂鉄のみち
内容
甲賀・伊賀、大和、淡路島、そして山陰の砂鉄のみちへ……さまざまに多彩な話題を各所でとりあげながら、歴史を裏舞台で生き、そして支えた、かなしいまでに律儀な、日本の職業人、技術者の足跡と、そのありようを語る。
印象に残った一節
「いまは、もう、つまらん」
と、老人がいった。
「働いて、金をとるだけや。それだけの働きや」
炭なら炭を焼くだけだ、それだけだ、という。それに農村はむかしとちがい、テレビや洗濯機などについての経費や、その他の消費文化についての経費がたくさん要る。それらの現金をかせがねばならないために、この老人でも出稼ぎに行ったりする。むかしはそんなことはなかった、という。
老人が最後にいった言葉は、
「こんな世の中はいやや」
ということばであった。老人だから昔を恋しがるのか、それとも本当に昔のほうがよかったのか、このあたりはむつかしいが、老人が、どこの馬の骨ともわからぬ雨宿りの男に、ちょうど新劇の役者が舞台でひとり長せりふを言うようにして言い、最後に「こんな世の中はいやや」と締めくくったとき、胸を棒で突かれたような気がした。日本中がいそがしいいまの世間に、すこし疲れはじめているのではないだろうか。
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当時の仏像や呪文としてのお経の霊験はすさまじいばかりのあらたかさで受け容れられていたらしく、鎌倉以降の理知的な宗教感覚ではちょっと想像しがたいほどのものであった。聖武の政治論というのは、その上に成り立っている。霊験ある仏をふんだんに作り、その作った仏によって自分も人民も救われようという苛烈なほどに単純な政治論で、このおかげで、われわれ後世の者に天平芸術の大遺産がのこされるのである。
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この点、加藤清正というのは、古今第一級の石垣の設計者だったように思える。かれの熊本城の場合は、こんにち補修のために築きなおしたあたらしい石垣のほうは鉄パイプを通したりして排水にずいぶん苦心しているが、古くからの石垣は、どういう仕掛けがひそめられているのか、そういうぶざまなことをせずともなお堅牢なのである。
江戸城が拡張されたときはいわゆる天下普請だったから、その石垣を築くについては諸大名が分担した。諸大名はそれぞれその境界を幔幕で仕切りし、自分の工事現場を他家に見られるこおとぉきらったというから、石積みというのはそれぞれ秘密だったのだろうか。
ところで、技術のへたな大名がいた。その現場は、普請の最中に大雨がふると、もう崩れるのである。その大名がたまりかねて清正のもとへゆき、やりかたを見せてほしいとたのんだ。
清正は心やすく見せてやった。『明良洪範』だったかに出ていたと思うが、清正の工事には格別の秘法というものはなかったらしい。ただ基礎工事が比類なくしっかりしていて、見学させてもらった大名は、これならば崩れぬはずだと拍子抜けする思いだったという。
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好奇心という、この人間のときに高度な能力と結びつく心理は、その低次元の段階(幼児もしくは未開の段階)では、物欲の中にくるまれて存在する。朝鮮は新羅の半島統一からかぞえれば千数百年も高度な律令文明をつづけてきたが、律令文明の敵は好奇心といってよく、つねに古を尚しとして、学問、思想、あるいは技術上の好奇心を封殺してきた。封殺されて寡少になった好奇心は、電灯をさえ欲しなくなるのである。
朝鮮において生産力を小さく限定してしまった鉄器農具の不足は、律令体制(儒教体制)のおどろくべき長期間の持続と、表裏一体といっていい。
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つまりは水が豊富だったということが鉄器を多産したということに、さかのぼればそうなるのであり、もう一度繰りかえせば日本と他のアジアとのちがいは、それだけのことではないか。一方、乾燥度の高いアジア(朝鮮半島をふくめて)は、そのかがやかしい古代冶金時代の終了とともに社会を閉じ、内部で古代の秩序文明(儒教体制)をみがいてゆくことに専念した。アジアは、それぞれの型に岐れた。
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もともと日本では人力以外に動力源をもとめようとする思想が薄かった。中国では『後漢書』に記載された時代からそれがあるというのは、『機械』(法政大学出版局刊)の著者の吉田光邦氏によれば、中国の水車利用は西洋からの影響であろうとされる。西洋文明は人力以外の動力を求めることについて過敏な文明であった。畜力を用い、水力、風力を用いた歴史の長さが、蒸気を開発させるにいたったのであろう。日本では江戸中期になってから各種の産業に水車が用いられたが、製鉄についてはついにこれが利用されずじまいであった。
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そういえば、李朝外交にはその種の仁義があり、明がたおれるときも、李朝内部に明への仁義をつくそうという気分がつよく、新興の清に対して態度が硬かった。日本の明治維新政権に対する態度の硬さが、やがて日本の在野に征韓論をまきおこす原因の一つになる。李朝が徳川政権にとって代った権力に、かつての豊臣政権の体質を嗅ぎとったとすれば、すぐれた直観だったといわねばならない。
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